「父が問題を理解するのは年齢的に難しい」。森喜朗の長女は雑誌社の取材にこのように述べた(NEWSポストセブン2021年2月12日)。

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 ここでいう問題とは、森がおこなったJOCの臨時評議会での40分におよぶ挨拶のなかでの、「女性がたくさん入っている理事会の会議は時間がかかる」「(組織委員会にも女性はいるが)みんなわきまえておられる」といった発言が抱える問題を指す。

 しかし森が理解できずにいたのは、それだけではなかった。

 くだんの発言によって東京五輪組織委員会の会長を辞するにあたり、森は後継の会長を川淵三郎でいくと勝手に決め、自宅に招いて就任を要請してしまう。川淵は川淵で「(森が泣いたと聞き)僕ももらい泣きしちゃって」「森さんの期待に沿うべく、しっかりベストを尽くしたい」「森さんを相談役に」とあけっぴろげに報道陣に喋る始末であった。

 引き際をわきまえることなく、自分の影響力をいかにして残すかを腐心する。あるいは狭いインナーサークルの中で権力をたらい回しにする。当世の政治の風刺漫画のような出来事であった。森はこうしたことを悪意なく、ナチュラルに繰り広げた。

 これにはもう一人の「娘」、橋本聖子も森は問題を理解できずにいると思ったであろう。週刊文春(2月25日号)によると、橋本は「川淵会長」誕生を「ひっくり返さないとダメだ」と水面下で動いていたという。


橋本聖子東京五輪・パラリンピック組織委員会会長 ©AFLO

 橋本の政界入りのきっかけが森の仕切った参院選であったことから、森は「私の娘」、橋本は「父」だと公言してきた。そんな橋本でも、この禅譲は認め難かったのである。

 ところが、橋本にとってはこれが仇となる。自分が会長になってしまったことで、「キス強要」問題を再燃させることになるからだ。

「頑張った息子に、ママのところに来なさい、という思い」

 事の起こりは、2014年のソチ五輪(森の失言で振り返れば「あの子は大事な時には必ず転ぶ」の大会)の閉会式後の打ち上げパーティーでのこと。日本選手団の団長であった橋本が、フィギュアスケートの選手に執拗にキスをする。

 その模様を捉えた写真が週刊文春に掲載(2014年8月28日号)されると「強制した事実はありません」、はたまた「頑張った息子に、ママのところに来なさい、という思い」での行為だと釈明する(週刊文春2021年2月25日号)。後者の意味はよくわからないのだが、いずれにせよ、この行為は社会的にはセクハラに当たるだろう。

 この件があるがために橋本は、党の参院会長になるなど着々と政治キャリアを積みながらも、政権からの入閣の要請を拒み続けなければならなくなる(週刊新潮2019年9月19日号)。

 それでもオリンピックへの特別な思いからだろうか、2019年、五輪担当相に就く。すると週刊文春(2019年9月19日号)はキス強要事件をふたたび取り上げ、「橋本氏は酔うと“キス魔”になって、同僚議員だろうが構わずキスをする」「飲み会では聖子コールにあわせて、両手に持ったビールを嬉しそうに飲んでいます」と、変わらぬ橋本の素行を伝えている。

「セイコ! セイコ! ハシモトセイコ!」の掛け声のなか、スピードスケートのフォームのごとく、左右の腕を振りながらそれぞれのジョッキを飲み干す「コール飲み」を、橋本本人もやっているのかと驚くところであるが、それはそれとして、橋本聖子とはいったい、どんな来歴の人物なのか。

スポーツと政治の接近とともにあった橋本聖子

 橋本は、東京オリンピック開幕式の5日前、1964年10月5日に北海道に生まれる。聖火にちなんで「聖子」と名付けられたこと、生家は名馬マルゼンスキーの生産牧場であることなどは広く知られるところだ。幼い頃からスピードスケートを続け、1984年のサラエボ大会に出たのをきっかけに冬季大会に4回(日本人初の冬季競技の女性メダリストは橋本)、夏季大会に3回出場する。

 特筆すべきは冬・夏両方に初めて出場した1988年である。2月に開かれたカルガリー大会にスピードスケートで出場した橋本は、5種目すべてで日本記録を更新し入賞を果たすと、4月から自転車の練習に取り組み、6月には日本代表の選考会を兼ねた自転車競技選手権を制して、ソウル大会に出場するのである。 

 冬季のみならず夏季大会にも出場したいとの思いから自転車を始めた橋本へは、「自転車一本の選手の夢を横取りするのか」「自転車は甘くない」といった声があったことだろう。

 その後、国会議員になっても競技を辞めず、1996年にアトランタ大会に出場する。このときも「政治をおろそかにするな」「議員をやりながら出来るほど競技は甘くない」などと言われたことだろう。是非はともかく、そんなふうに私情を貫いてきたのである。 

 そんな橋本でも、議員になる際、結婚や出産は諦めないといけないかもしれないと思ったという。しかし1998年にSPの男性と結婚すると、2000年には出産する。現職の国会議員としては51年ぶりのことであった。

 そのとき「子供を産むなら議員辞職しろ」との声もあがれば、出産後、議員会館に子連れ出勤を始めると「公私混同」の声があがることもあった。また議員が国会を休む際には議長に「請暇願」を出すのだが、そこには事故や病気などの理由が必要であったが妊娠はなかった。そこで衆参の女性議員が立ち上がり、「妊娠」が加わることになる。

 こうした国会での女性の地位確立について橋本は、「誰かがやれば次の人がやりやすくなる」「実際に妊娠、出産する人がいないと仕組みは変わらない」(婦人公論2000年12月7日号)と述べている。

 さらに橋本は、党の副幹事長や女性局長、参院会長に就くなどキャリアを重ね、前述のように「キス強要」問題を気にして大臣になるのは「遠慮」する傍らで、日本スケート連盟の会長の職を続け、それどころか全日本スキー連盟、日本ライフル射撃協会、日本ホッケー協会の要職に次々と就いていく。 

 ここに政治とスポーツの緊密な関係を見ることができよう。森がスポーツを蹂躙していく様子を散々見た今となっては、この2つが緊密なのは当たり前のことだが、かつてはそうではなかったのだ。 

 たとえば日本オリンピック協会は当初、文部省所管の協会の中の一組織であったが、「スポーツは政治から距離を置いたほうがいい」との考えから独立した組織になっていた。ところがスポーツ界では「競技力を保つために政治の力が必要」と思いを改め、政治とスポーツが再び距離を縮めるようになる。そして森が日本体育協会の会長に就任する2005年頃には、政治とスポーツの再接近が完成していたという(AERA2021年2月22日号)。 

 こうした流れに乗せられたのが橋本であり、乗せたのが森であったろう。

2004年に出回った“ある企画書”

 ところで森が日本体育協会の会長になる前年の2004年、ある企画書が出回る。電通名義で作成された神宮外苑再開発に関する企画書『GAIEN PROJECT「21世紀の杜」企画提案書』だ。後藤逸郎『オリンピック・マネー』(文春新書)によると、この提案書に書かれた施設はほとんどが実現しようとしているという。

 「神宮の杜」とも呼ばれる神宮外苑は建築制限が日本一厳しいと言われていたが、オリンピックの開催を錦の御旗に、建築の規制は緩和され、都営霞ヶ丘アパートの住人も立ち退きを迫られることになり、新国立競技場建設と周辺の再開発が進められたからだ。

 まるで再開発が先にあり、東京オリンピックはあと付けであるかのようだ。そのように見れば、五輪開催について当初は「観光立国」実現への契機を謳い文句にしていたことなど忘れ去られ、菅首相も「(五輪開催は)人類がコロナに打ち勝った証」と言わなくなったが、本来の目的はすでに果たしているのだ。

 あとはどういう形であれ五輪を開催し、請求書を国民に突きつけるだけであろう。「あのとき、オリンピックを楽しんだじゃないか」と言って。これが政治とスポーツの再接近の帰結なのか。

「父」とまで呼んだ森に背いた橋本の今後

 石井妙子『女帝 小池百合子』(文藝春秋)に、女性ジャーナリストのこんな言葉がある。

「政権が女性の大臣を立てる時はだいたい要注意なんですよ。汚れ仕事を女性にやらせようとする。女性大臣は官僚や官邸に忠実です。立場が弱いし、自分の考えを持っているようで持っていない。女である彼女たちが厳しい判断をしても、男性がするよりは柔らかく世間には映る。だから官邸は女性に汚れ役を回すわけです」。

 新たに五輪担当相となった丸川珠代は、さっそく、「オリンピックの開催は新型コロナウイルスのワクチン接種を前提にしない」旨の答弁をしている。なるほど『女帝』にある通りだ。

 では橋本はどうか。官邸が森の「川淵がダメなら山下泰裕に」との意向も潰し、「橋本会長」を実現したといわれる。橋本が「父」とまで呼んだ森に背くようにして会長になったのは、なんらかの思いがあるからに違いない。

 それは元アスリートとしての五輪への思いなのか、それとも政治家としての打算なのか。果たしてどちらであるのだろうか。 

(urbansea)