人的補償の男たち(1)
馬原孝浩(ソフトバンク→オリックス) 前編

「ホークスに残れたとしても、辞めるという決断をしていたかもしれません」

 もしオリックスへの移籍がなかったら――という問いに対する、かつてのソフトバンクの絶対的守護神・馬原孝浩の答えである。


ダイエー、ソフトバンク時代に絶対的守護神として活躍した馬原

 馬原はプロ野球歴代8位となる通算182セーブを積み上げ、"常勝軍団"ソフトバンクの礎を築いたひとりだ。しかしケガによる手術で離脱中の2012年オフ、FAでソフトバンクに加入することが決定した寺原隼人の人的補償として、オリックスに移籍することになる。その後、2014年にはセットアッパーとして復活を遂げたが、翌2015年に現役を引退した。

 決して自らが望んだ形ではないFA人的補償による移籍は、馬原にとってどのような経験だったのか。その背景を紐解くと、ピッチャーとしての覚悟が見えてきた。

 小学4年生から野球を始めた馬原はプロ入りまで投手一本、先発完投を理想型とする選手だった。実際にプロ入り当初は先発として期待されており、1年目から8試合に先発して3勝を挙げている。

 しかし当時のソフトバンクには、新垣渚、斉藤和巳、和田毅、杉内俊哉といったエース級の投手が先発ローテーションを固め、外国人投手やベテラン・中堅の投手が谷間を埋めるという状況で先発枠の争いは熾烈を極めていた。ファームでチャンスを伺う神内靖、寺原、そして馬原にはなかなか登板機会が回ってこない。

 そこで杉本正投手コーチから打診されたのがリリーフへの転向だった。

「先発時代は5割くらいの力で投げて抑えるというのが僕の投球スタイルだったのですが、それでは1軍で通用しないと感じていたところでした。それならリリーフとしていつ肩がぶっ飛んでもいいから全球全力で投げることに決めたんです」

 2005年シーズン当初、ソフトバンクのクローザーは三瀬幸司が務めていた。しかし三瀬が不調に陥るとリリーフ転向を決断した馬原が抑えに抜擢され、以降ソフトバンクの守護神として君臨。2007年には最多セーブのタイトルを獲得している。

 ケガとつき合いながら2011年までソフトバンクのクローザーを務めてきた馬原だったが、2012年に右肩を手術し、この年ついにシーズン中の復帰は叶わなかった。
そしてオフにFAでソフトバンク復帰を表明した寺原隼人の人的補償としてのオリックス移籍が告げられる。

「本当に急遽だったんですよ。寺原本人とホークスのチームメイトたちとバーベキューをしているところに電話がかかってきました。一瞬戸惑いましたけど......ネガティブに考えるほうではないので新しい環境でできるという前向きな気持ちでした。そもそも僕自身は、プロテクトから外れることは予想していたんです。手術をして1年かけてリハビリしていくという段階にあったので」

 その年オリックスの監督に正式就任した森脇浩司氏は、馬原がホークスに入団した当時に二軍監督を務めていた。プロ入り後に何かと気にかけてくれた、馬原にとって恩人のひとりである。森脇監督にとっても信頼を置く馬原の獲得は肝煎だったに違いない。

「森脇さんとも電話口で話しましたけど、僕の獲得を推してくれたんだろうなというのは伝わってきました。だから補償として選ばれたプレッシャーはありましたね。でも、もし森脇さんのところでなかったとしてもポジティブに考えていたと思います。もともと僕は、リリーフに転向してから『チームに貢献できなくなったらいつ辞めてもいい』と思っていました。だから仮にホークスに残れたとしても、それができないと感じたら辞めるという決断をしていたかもしれません」

 一方、自身のFAによって馬原を移籍させることになってしまった寺原は強いショックを受けていたという。

 2人は同じ九州出身で城島健司氏の自主トレにも一緒に参加する仲でもあり、辛くもどかしい二軍時代をともに過ごしたよきライバルでもあった。

「(補償は)自分だったと伝えたら、寺原は絶句していました。でも、ちゃんと前向きな気持ちを打ち明けて、むしろオリックスのことはわからないからいろいろ教えてほしいと話しました」

 オリックスに移籍した馬原は1年目の2013年こそケガで離脱したが、翌2014年、セットアッパーとして55試合に登板・防御率3.55をマークして完全復活した。この年のオリックスは首位とゲーム差なしの2位と、近年最も優勝に近づいている。

 しかし、ソフトバンクからオリックスに移籍したことで大きく環境が変わり、馬原はさまざまな面でカルチャーショックを受けることになる。一番苦労したのはコンディション調整の部分だった。

「ホークスの時は体を維持するために独自のメニューやルーティーンを1日かけて行なっていたんです。一方でオリックスでは朝起きてから夜寝るまでの動きが全部決められていました。シーズン中もそれは同じで正直戸惑いましたし、馴染むのにも時間がかかりました。でもそれも他球団に移ったからこそ知れたことですね。わからないことはいろいろな人に質問することで解決していきました」

 オリックスに移籍してからは趣味の釣りを通して、坂口智隆、岸田護、小松聖などの選手とも公私に渡って交流を深め、徐々にチームに溶け込んでいったという。馬原が移籍後も活躍できた要因のひとつとして、周囲とコミュニケーションを取りながら、自分の環境を作れたということが大きかったのではないだろうか。

 チームが変われば当然新しい人間関係を構築しながら環境に順応し、結果を残さなければならない。FA人的補償選手は所属球団のプロテクトから漏れたという自身に対する評価と、移籍による環境の変化と向き合うことになる。越えるべきハードルは高い。

 その中で馬原は移籍先の環境に自分を合わせるだけでなく、自らが過ごしやすい状況を作り出していった。それが2014年の復活に繋がり、さらには引退後のトレーナー転身をも可能にしている。

(つづく)

馬原孝浩(まはら・たかひろ)
1981年12月8日生まれ。熊本県熊本市出身。2003年ドラフトで福岡ダイエーホークス(当時)に自由枠で指名され入団。主にクローザーとして活躍し、オリックス移籍後も33ホールドを挙げるなど通算182セーブの記録を残して、2015年に引退。トレーナーに転身し、2020年10月には独立リーグ「火の国サラマンダーズ」のピッチングGMに就任することが発表された。
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