新型コロナの影響で、ついに通天閣には赤信号。なぜ筆者は「Go Toは史上最悪の政策」と言い切るのか(写真:アフロ)

いま政治の世界では、分断を拡大するのがはやっているらしい。

アメリカの分断はドナルド・トランプ大統領が深化させたが、日本の分断は菅義偉首相が作ったのではないか。

Go To分断だ。

明らかにこれほど間違った政策もないが、さらにこれほど、ほとんどすべての有識者が間違った批判をしている政策もない。その結果、Go Toは日本中を混乱に陥れてしまった。Go Toは「史上最悪の政策」だ。
なぜか。説明しよう。

なぜ「史上最悪の政策」なのか


この連載は競馬をこよなく愛するエコノミスト3人による持ち回り連載です(最終ページには競馬の予想が載っています)。記事の一覧はこちら

まず、経済効果としてマイナスなのだ。有識者の代表的な議論は2つに集約される。

ひとつは「Go Toは経済効果があることは間違いない。だが今はコロナを抑えるのを優先させるべきだから…」という立場だ。もうひとつは「いや、経済が駄目になったら元も子もない。だからうまくGo Toを活用して…」という立場だ。

立場はこの2つのうちのどちらかであり、ほとんどの有識者は前者であり、菅首相とその周辺だけが後者である。しかし、実はどちらも間違いで、Go Toは経済効果がマイナスの政策なのだ。

「えっ?」と思われる方もいると思うので、説明しよう。理由は3つある。第1に、需要を一時的には喚起する。だがそれは「需要の先食いでしかない」からだ。なぜ旅行に飲食に皆が殺到したのか。それは税金からの大盤振る舞いの補助金が出ているからであって、補助金が出なくなればほとんど誰も行かなくなる。

さらにGo Toが終了すると、その後に旅行に行くのは馬鹿馬鹿しくなる。「ああ、もっとGo Toの時に行っておけばよかった」と皆が思い、Go Toを使った人も使わなかった人も、Go To終了後は旅行者が激減する。つまり先食いした以上に旅行客は減ってしまい「トータルの効果は大きなマイナス」となる。これが第2の理由だ。

経済学的に言うと、第1の効果は所得効果、第2の効果は代替効果(価格による)と呼ばれる。つまりGo To終了後は、ダブルで旅行消費は減り、まさにダブルパンチとなるのだ。

だから、菅政権は一時的に大阪や北海道を目的地とするGo Toを「中止」しただけでなく、一時中止地域を広げるかどうか議論になっているときに、現状の予算枠を使い切った後もGo Toを延長することを先に決めてしまっている。これは、Go Toを止めた瞬間にGo Toをやったことがむしろトータルでマイナスであったことに皆が気づいてしまうからではないか。

第3の理由として、観光業界から見ると、旅行してほしい人は旅行せず、業界全体への効果が相対的に小さい人々しか旅行してもらえないからだ。言い方は悪いが、コロナ感染をもともとあまり気にしない、かつ相対的に所得の低い人々が喜んで旅行に出かけるいっぽうで、観光業界としては「ドル箱の富裕層」あるいは「相対的に豊かな高齢者」の旅行は、むしろ激減してしまうからだ。

よって、優良な旅館、人気のあるホテルほど、Go Toは有り難くないのだ。「お得意様」である常連客は、いつも見かけない客が押し寄せているので、こんな混んでいるときにわざわざ行きたくない。高齢者は、旅行どころか、外出するだけでも慎重におそるおそる出かけているのに、混雑している観光地に行くなんて、とんでもない。よって、業界としても有り難くないし、トータルの観光消費としても、中長期的に見れば減少することになり、マクロ経済的にも望ましくない。

なぜ「Go To」は「罪深い」のか

このように、経済的にもマイナスの政策なのに「経済的には効果があることは間違いがない」と、ほとんどすべての人が思っている。そこですでに議論がおかしくなってしまっているのだ。

しかし、実はそれ以上にGo Toが罪深いのは以下の点だ。つまり「Go Toを大歓迎する人々」と「Go Toをよく思わない人々」とに、社会を真っ二つに分けてしまうことである。

これは、世論調査にも表れている。Go Toに関する調査は賛成と反対とがほぼ半々に常に分かれている。これは、日本の世論調査としては珍しいことだ。わが国では、常に長いものに巻かれようとするのか、目先の具体的なことについては、人々の意見はどちらかというと一つの方向に傾く(傾きすぎるのが問題になることも多いが)ことが、ほとんどだ。

しかし、Go Toでは「完全に2分されている」に等しい。コロナに対する国民の見方は、分かれているわけではない。緊急事態宣言をしたほうが良いかどうか、飲食店の深夜の営業を制限するかどうか、などは、多数派の意見ははっきりしている。

これは、Go Toのせいなのだ。すなわち、Go Toが世論を二分し、人々を二つの対立する集団に分け、社会を分断しているのだ。これがGo Toの最大の問題点であり、「史上最悪の政策」である理由である。

これには、もっと根本的な「日本社会の思考停止」にも問題がある。それは、すぐに「命と経済とどっちが大事なんだ!」という二分法で議論をしてしまいがちなことだ。

コロナ問題では、常にこの論法が持ち出される。今までは常に感染防止対策を最優先するための論理として使われ、人々の心理としても「感染防止最優先が大前提」としてしまう結果につながってきた。

これがエスカレートして、馬鹿馬鹿しいことに「何よりもコロナ感染防止」が重要となり「多くの高齢者がコロナにだけは絶対になってはいけないから」などと当然のように、日常会話の枕詞で使うようになってしまった。

「経済と命の二分法」に怒るのは理解できるが・・・

その結果、命の危険がコロナよりも高い深刻な疾患があるのに、コロナのことを、一般の人々だけではなく行政府も病院も恐れることになってしまっている。その結果、意味不明なまでに過剰な対応がなされ、滑稽なまでの対応が時としてなされている。もちろん、笑いごとではないことに、うつ病や子供のDV(ドメスティックバイオレンス)なども増えているだけでなく、命にかかわりかねない多くの病気の診察を患者自身が控えてしまっている。

これを腹立たしく思うのは私だが、「経済と命の対比論法」に対して私以上に怒りをため込んでいたのが菅首相だと思われる(あくまで想像だが)。

春には「8割おじさん」などもいて「専門家会議は、とにかくコロナのことしか考えない」という批判が一部の人々にはくすぶっていた。「東京はニューヨークを超える死者が出る」など、私に言わせれば限りなくゼロに等しい確率でしか起こりえないことを「理論的な推計としてはあり得る」などと主張して人々を恐怖に陥れ、自粛を過剰にし、経済を過度に委縮させた人がいたのは事実であると捉えている。

菅首相も、当時そう思ったのではないか。それで、感染症の専門家への不満や不信が募り、今回の感染拡大時も、専門家の意見は常に割り引いて聞いていたのではないか。

「専門家に影響を受けたメディア、さらにはメディアに影響を受けた結果として、国民全体がコロナを過度に恐れてしまっている。『命を優先しろ!』と、まるで言論テロリズムのように、感染対策を過剰に主張している。ここは(意地でも)経済を優先させなければいけない」と菅首相は思い込んだのではないか。

それ自体は、私も同じ方向の意見を持ってはいる。しかし違うのは「それはあくまでも程度問題で、バランスが常に重要だ」ということだ。確かに4〜5月は感染症を極端に優先させ過ぎた。だが、10月以降の感染拡大に関しては、人々は4〜5月のときの自粛にうんざりして、10月には自粛すべきことも一切しなくなってきた人が増えてきた。だから、感染対策を強化する必要があることは間違いなかった。

しかし、それよりも重要なのは「経済を優先させることと、Go Toを意地でも続けることはまったく別問題」ということだ。さらに、前述のように、Go Toはそもそも経済的にもマイナスだから、いかなる意味でも、即刻全廃すべきなのだ。菅首相はそこがまったくわかっていない。

菅首相の認識が間違っているだけなら、極端な話、首相がコロナ対策を担当しなくなれば、問題は解決するはずだと思われるかもしれない。だが、そうではなく、社会的に分断が生じてしまったことが最大の問題であり、永続的に消えなくなってしまっていることが問題なのだ。

Go Toに行く人々は、極端に言えば「行動制限はとにかくいやだ。隙あらば、動きたい」という人々だ。これはこれで理解できる。彼らにとっては、コロナ対策の自粛要請は嫌だし、そもそも営業活動が阻害される人々にとっては迷惑極まりない。

一方、コロナをもともと恐れている人々は、感染が広がっているのに、活動を続け、4〜5月よりも拡大している人々に不満、憤りを感じる。もし心が広い人で憤りを感じなくとも、そもそも感染の可能性をより恐れるようになる。

これは合理的だ。感染の可能性は高まっているし、自粛する気がない人々の行動の結果、彼らが活動している外にはますます出にくくなってしまう。この2つのグループの感情的な対立、行動様態の分裂は確定し、断絶は深まる。この結果、感染症対策としても社会が一体となって対策を行うことが最重要なのに、それが失われてしまう。さらに、感染症対策とは別の側面でも、感情的な分断が残り続ける。社会が一体化しているという日本社会の長所が失われてしまうのだ。

今必要なのは「異常な経済刺激策」ではない

結局、菅政権が決定的に誤っていることは、経済を動かすための起爆剤としてGo Toを評価し、また起爆剤が常に必要だと思っていることだ。これは根本的な欠陥だ。

今必要なのは、起爆剤でもないし、刺激ですらない。異常な景気刺激策ではないのだ。「アフターコロナ」とは日常への回帰であり、正常化、平常化なのである。Go Toという政策は異常であり、異常事態でお祭り騒ぎをして、凍っている経済を溶かし、凍土をぶっ壊すことを目指しているようにしか見えない。それが根本的な間違いだ。

正常化するには「コロナを過度に恐れる必要がない」とすべての人々に理解させることが必要だ。その状態を作ることが必要だ。淡々と感染症対策をし、リスクの高い高齢者、リスクの高い施設に対する対策を徹底して行う。後はマスクをして、慎重に、ただし普通に行動する、生活する、経済活動をすることなのだ。

Go Toを使う人は非日常を求めて非日常的に行動し、Go Toを嫌う人は日常に戻れずに、引きこもる。そして社会は分断される。このような結果をあえてもたらすGo To政策は、史上最悪の政策なのだ(本編はここで終了です。次ページは競馬好きの筆者が週末のレースを予想するコーナーです。あらかじめご了承下さい)。

今シーズンの競馬は本命馬が勝ち続けているが、6日に行われるチャンピオンズカップカップ(G1、中京競馬場11R、距離1800メートル)は、いままでのどのレースより堅いレースだ。理由は2つ。1つは、クリソベリルという、国内では無敗の圧倒的に強い馬がいること。もう1つは、ダートのレースであるということだ。

日本における一般的な認識と異なり、ダートレースこそが競馬の本質であり、芝よりも優れた競技レースである。

なぜなら「能力検定」において、紛れが少なく、正確な結果が出るため、価値が高いからだ。日本の芝コースは、特有のスピードが出る軽い芝である。そのため、海外調教馬はほとんど来なくなってしまった。

一方で、先日のジャパンカップは断然本命のアーモンドアイが勝ったが、「死角」として挙げられるのは、秋シーズンの末期であるため、ときとして力のいるボコボコの芝になっていたりすることだ。また競馬場によっては一瞬のスピードが要求されたりすることから、コース取りなどでも明暗が分かれる。騎手、展開、運などの要素が、馬の能力以上に必要とされる場合があるのだ。

実力馬が強いダートG1の本命はクリソべリル。相手は?

そこへ行くとダート戦はスピードも力もスタミナも要求されるため、ほとんどの馬が全力を振り絞る。それゆえ紛れが少ない。確かに雨によって砂の状態は変わるかもしれない。だが水分量以外は、レース施行者の手によって、状態をコントロールすることができるので、コースの状態を一定に保てる。

また、最後の直線だけでは勝負にならないので、極端なハイペースで先行馬がバテるというようなケースを除けば、展開の影響も小さい。実際、ダートで強い馬の多くは、先行集団で好位置につけ、そのまま差し切ることが多い。実際、一流馬はダートしか走らないと言っても良いアメリカでは、ほとんどの有力馬が先行する。力が違う場合には、スピードに任せてそのまま逃げ切る。フランスの凱旋門賞のようなレースとは全く異なったレースとなる。

凱旋門賞のようなレースは、それはそれで面白い。だが、純粋な馬のスピードとスタミナと底力をみるためには、ダートの方が優れている。したがってダート戦は、本命馬が勝つ。地方競馬である大井競馬場でのレースでもそうだし、JRA(日本中央競馬会)が主催する中央競馬のコースでも同じである。

よって、本命はクリソベリル(8枠15番)。断然なので単勝を買っても仕方がないので、相手を考えると、JRA主催ではない地方競馬のダート戦を戦ってきた馬の方が信頼できる。さらに、JRAのレースなら昨年のこのチャンピオンカップか今年のフェブラリーステークスという砂のGIで実績のある馬を買いたいところだ。

よって、相手はチュウワウィザード(6枠11番)とゴールドドリーム(1枠2番)。穴なら、前走に目をつぶって、モズアスコット(6枠12番)。