「NHKをぶっ壊す」それより先にぶっ壊すべきものは...
「ぶっ壊す」と声高に叫ばれているNHKもなかなか捨てたものではない。
シベリア抑留者の遺骨取り違え問題について、NHKが矢継ぎ早に流す報道を見てそう思った。
厚生労働省の派遣団が5年前に日本人のものとしてシベリアから持ち帰った16人分の遺骨。実は日本人のものがほとんど含まれていなかったという専門家の鑑定報告を1年半前に受けていたにもかかわらず、厚労省はその事実を伏せていたという。当初は16人分の遺骨に関する報道だったが、今週、NHKは新たに70人分の遺骨に関しても同様だったと報じ、厚労大臣や官房長官に対しても記者会見の場でこの問題について追及した。
ぶっ壊すべきものは...
一連の報道を見ると、NHKは現地取材も含め相当な証拠固めをした上で、厚労省の反応を見ながら二の矢、三の矢を戦略的に放っているようだ。数日前にNHKが放送した「戦没者は二度死ぬ 〜遺骨と戦争〜」というドキュメンタリー番組では、シベリア問題に加えて南方諸島での遺骨収集活動に参加した遺族が直面した厳しい現実や、日本だけでなく他国の遺族や政府に対する日本政府の大失態と呼ぶべき実態も明らかになった。
この4月、厚労省とアメリカ国防総省が戦没者の遺骨収集で協力するための覚書を結んだという報道があったが、厚労省は長年、米兵の遺骨が混ざっている可能性のある遺骨を日本独自の基準と判断により現地で焼骨してしまっていた。焼骨してしまうとDNA鑑定による身元確認ができなくなるという、やはり自国兵士の遺骨収集に取り組むアメリカ側の指摘を実質的には無視してきたようだ。
「NHKをぶっ壊す」よりも先にぶっ壊すべきものがあるのではないだろうか。
だが、それは厚労省やその他の特定の中央官庁や政党をぶっ壊すという短絡的な話ではない。今回のような報道を見聞きする度に、僕は74年前の「あの日」にぶっ壊されたものを思い出さずにはいられない。
74年前の「あの日」
僕の記憶には今も「あの日」のことが鮮明に焼き付いている。
1945年の8月15日を僕は疎開先の宮城県、白石という町で迎えた。3月10日の東京大空襲では幸い世田谷の自宅は無事だったが、渋谷で開業する町医者だった父の医院は焼失。その直後に家族で疎開した先が父の出身地、蔵王連峰のふもとにある白石だった。僕は13歳、中学2年生だった。
15日正午の玉音放送については前日からラジオで予告があり、当日の放送は家族が揃って聞いた。雑音がガーガー入り混じる天皇の途切れ途切れの音声は内容も難解だったが、続いて流れたアナウンサーの言葉から、日本が負けたこと、「国体は護持」されたことを知った。長い放送のあと、何とも言えない脱力感とともに「助かったんだ」という安堵感に包まれたことを覚えている。
その日の白石は晴天。外に出ると、日の丸を付け青空を駆ける戦闘機が「デマに惑わされるな、最後まで戦うぞ」という内容のアジビラを撒いていた。あの放送はデマだったのかと一瞬がっくり来たが、すぐにデマはアジビラの方だったと知った。
「あの日」、ぶっ壊されたもの
あの日、大人たちの世界では「勝利への希望」という大きなものがぶっ壊された。ぶっ壊されず残ったものもある。だが、13歳の僕にとってはその大人たちや「国」というものに対するそれまでの認識や価値観がぶっ壊された。
もちろん、それはあの日1日だけの間に起きたことではなかったが、あの日を境に大人たちや国の豹変ぶりを目の当たりにすることになった。それまで日々、「鬼畜米英を突き殺せ」と竹槍訓練で僕らを厳しく指導した教官、連合国を悪魔であるかのように説いてきた教師、そしてそんな大人たちが信奉していた国家。仙台へ向かう国道をジープやトラックを連ねて颯爽と走るかつての鬼畜米英が、13歳の僕には解放軍のように思えた。
疎開先から東京に戻ったのちも、米軍の駐留やアメリカ政府主導の国家再建はその後10年あまり、中学生から大学生へと成長する僕にさまざまな影響を与え続けた。医学部卒業後のインターン先として、当時米軍に接収され米軍極東中央病院と呼ばれていた現在の聖路加国際病院を志願し、1年間のインターン後は日本に戻るつもりもなく外科修業のため渡米した僕の原点は「あの日」にある。
仕組みづくりと意識づけ
遺骨取り違え問題に関するNHK報道では、ある元官僚の大学教授が、厚労省としてはこれまで何度も遺骨の取り違えが起きていたことを認めてしまうことでパンドラの箱が開いてしまうことを恐れたのではないかと指摘している。さらに、霞が関には「前任者がやったことを否定できないようなルールがあり、前任者が避けてきたような話を自分が処理しても評価されないという心情も加わり、問題の解決を先送りにしてしまう状況がある」という。
まったく同感だ。だがこれは霞が関に限ったことではない。大学医学部でも医学会でも同様の傾向は昔からある。他の業界でもこの傾向が多かれ少なかれあることは過去のさまざまな不祥事の報道などからも明らかだ。これは日本人の気質なのか、集団の行動原理なのか。少なくとも信念や哲学という次元のものではない。ぶっ壊すべきものの一例だろう。
アメリカの場合、パンドラの箱があるのなら早めに開かせるような、あるいはそれ以前にパンドラの箱を作らせないような仕組みづくりや意識づけの上手な社会だ。それは医学・医療の進歩や医療事故・医療過誤の予防など面にも表れている。国内外の政治・経済や人種の問題、貧富の差などさまざまな課題を抱える社会だが、次々と噴出する新たな問題や課題にそのようにして取り組む。この仕組みづくりや意識づけに関しては今の日本がアメリカから学ぶべきことも多い。
今後の日本を背負う若者たちのためには、ぶっ壊す必要のある制度・慣習をできるだけ残さないようにするための取り組み、そして学校に限らず家庭や社会全体として子供の教育において、そのようなものを最初から植えつけないようにするための取り組みが大切だ。そのための仕組みづくりや意識づけを阻むものはぶっ壊せば良い。
NHKは、常に広告主の顔色をうかがう必要のある民間放送でもなければ国営放送でもない。NHKのホームページには「公共放送とは営利を目的とせず、国家の統制からも自立して、公共の福祉のために行う放送といえる」という記述がある。ぜひともその本来の使命の一環として、ぶっ壊すべきものをあぶり出し続けてほしい。
[執筆/編集長 塩谷信幸 北里大学名誉教授、DAA(アンチエイジング医師団)代表]
医師・専門家が監修「Aging Style」