家族と一緒にものを食べる「食卓での団らん」は、日本では理想の姿だとされてきた。では、1人での「孤食」は問題なのだろうか。宮城大学の石川伸一教授は「共食という行為だけをとらえて過剰に期待するのには、用心しなければならない」という――。

※本稿は、石川伸一『「食べること」の進化史』(光文社新書)の第4章「『未来の環境』はどうなるか ―食と環境の進化論―」の一部を再編集したものです。

※写真はイメージです(写真=iStock.com/byryo)

■近代まで日本の食卓では「会話禁止」だった

昔からある共同体の最小単位のひとつは「家族」ですが、その単語を聞くと、仲良く食事をする食卓の風景を連想する人も多いのではないでしょうか。家族そろって食卓を囲む姿は、テレビなどのメディアでもたびたび描かれてきたように、家族の一体感をあらわす縮図として扱われてきました。しかし、日本の歴史上で「食卓での家族団らん」の概念が生まれたのは、思いのほか最近のことです。

家族関係学が専門の表(おもて)真美氏は、日本の家族団らんの歴史的な変遷を調べています。その調査によれば、近代までの一般的な家庭の食事は、個人の膳を用いて家族全員がそろわずに行われ、家族がそろっても食事中の会話は禁止されていました。では、食卓での家族団らんは、どのように始まり、どのように普及していったのでしょうか。

■「家族での食事」が一般的になったのは1970年代頃

かつて、団らんの移り変わりには、「欧米からの借りものとしての団らん」「啓蒙としての団らん」「国家の押しつけとしての団らん」があったことが知られています。

食卓での家族団らんの原型が誕生したのは、明治20年代でした。教育家・評論家の巌本善治(いわもと・よしはる)が、食卓での家族団らんを勧める記事を書き、キリスト教主義の雑誌にも同様の記述が複数登場しました。その後、国家主義的な儒教教育と結びついた記事により、家族そろって食事をするべきだという意見が広がっていきました。

その後、家族団らんが、一般的な家庭の食事風景になったのは1970年代頃でした。NHKの国民生活時間調査によると、この頃、家族で食事している家庭は約9割に達しています。共食が常識だったこの時代の家庭科の教科書には、家族一緒の食事を促す記述はほとんどみられません。

■なぜ多くの人が「家族団らん」をイメージするのか

その時期が過ぎ、1983年に出版された足立己幸(みゆき)氏の『なぜひとりで食べるの』という本の中で「孤食」という言葉が使われました。1980年代前半には、孤食が社会問題となり、1980年代後半には家庭科教科書に孤食へ対する注意喚起が記されました。2000年前後は、家族で一緒に食事すべきという考えが、強迫観念的なものとして捉えられる時期でした。

食卓での家族団らんが、家庭の常識として成立していたのは、高度経済成長期にあたる1955〜1975年の20年間ほどでした。家族団らんは、それ以降の日本社会の“進化”の過程で、変わらずに生き残ってきたとはいえません。しかし今もなお、多くの人の心の中に、ロールモデルのような家族団らんのイメージが生き続けているのはなぜなのでしょうか。

■子供の「欠食」に気づかない親が増えた

家庭での食事は、基本的には家庭ごとに非公開で行われるものです。他の家庭の食事の全貌は、当事者たちが自ら公表しない限り、通常は明らかになる機会はありません。その“密室の行為”であった家庭の食が、ある本によって明るみに出て、世間に大きな衝撃が走ったことがありました。

2003年に出版された、岩村暢子(のぶこ)氏の『変わる家族 変わる食卓』は、食マーケティングの目的で各家庭の1週間の食事、計2000以上の食卓の写真を収集、分析しました。

その結果、親も子もそれぞれの食べたい時間に食べたいものを別々に食べることが増えたこと、また、子どもに嫌いな野菜を「食べてもらう」ために、擦り込んだり混ぜ込んだりする親が減り、栄養バランスに関係なく子どもの好きなものだけを食べさせたり、欠食に気づかない親が増えたことがわかりました。

また、過去と比べて、外食へ連れて行く父母世代も減り、話題の店や新商品をチェックする熱意も低下しています。その背景として、家族や社会の変容があるのではという指摘がなされています。

社会や環境の変化によって、日本の家族が、団らんを必要としない、あるいはできない生活形態になったのでしょう。それにもかかわらず、家族団らんが理想の姿のように扱われるのは、高度経済成長期の“古き良き日本の思い出”が作り出したイメージにも感じられます。

■「ひとり食卓」が日常化している

現代の一般家庭で、神棚や仏壇に食べものを供えるのは、ご年配の方のいる家庭が主となり、家庭の食卓で、神や祖先との聖なる行事としての共食は消失しました。私たちは、かつて祭りのときにしか食べられなかったごちそうやお酒を日常的に食しています。

家族といつも一緒に同じものを食べるという家庭も一般的ではなくなり、各個人がそれぞれの都合に従って食べる「ひとり食卓」が、現代の日常の「ケの日の食事」の傾向としてあります。家族がそろって食べるようなお正月などの「ハレの日の食事」が、昔でいう神と食べた祭りの食となっています。

そもそも、家族と一緒にものを食べる共食は、家族内のコミュニケーション上、重要な行為なのでしょうか。

■共食は家族関係を良好にするか

前述した表氏の調査によると、乳児を持つ家庭には、家族との食事の共有と家族関係との間に関連は認められませんが、大学生の子どもと同居する家庭では、家族そろった夕食の頻度が高い方が、家族のまとまりに好影響がみられることが明らかにされています。また、小学生を対象とした調査によると、食事中の家族との会話は、子どもの健康に良い影響を及ぼすことも報告されています。

石川伸一『「食べること」の進化史』(光文社新書)

中学生に関しては、食卓が「安らぎの場」と思える場合に限り、家族との食事は登校忌避感などを低下させる要因になっています。条件つきなのは、中学生は親子間の葛藤が起こりやすい思春期の時期にあること、親子の会話に学校の成績や進路に関する話題が増えることなどから、家族そろって会話をしても中学生にとっては「心安らげない」食卓が存在する場合もあるためです。

当然ながら、人はただ共食をすればお互いの関係が深まるものではなく、一緒に何をするにせよ、意見を伝え合い、理解する気持ちがあるかが重要なのでしょう。

近年の子どもたちをめぐる問題は、家族内コミュニケーションと結びつけて論じられることが数多くあります。個人個人の時間が増えている現代の家族にとって、食卓での共食は親子のコミュニケーションを深める場として期待されています。しかし、共食という行為だけをとらえて過剰に期待するのには用心しなければならないでしょう。

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石川 伸一(いしかわ・しんいち)
宮城大学食産業学群教授
1973年、福島県生まれ。専門は分子調理学。東北大学大学院農学研究科終了後、日本学術振興会特別研究員、北里大学助手・講師、カナダ・ゲルフ大学客員研究員などを経て現職。著書に『料理とのおいしい出会い 分子調理学が食の常識を変える』(化学同人)、『必ず来る!大震災を生き抜くための食事学』、共訳著に『The Kitchen as Laboratory 新しい「料理と科学」の世界』(講談社)など。

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(宮城大学食産業学群教授 石川 伸一 写真=iStock.com)