「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第1回 土橋正幸・後編

 平成の世にあっても、どこかセピア色に映っていた「昭和」。まして元号が令和になったいま、昭和は遠い過去になろうとしている。だが、その時代、プロ野球にはとんでもない選手たちがゴロゴロいて、ファンを楽しませていた。

 過去の貴重なインタビュー素材を発掘し、個性あふれる「昭和プロ野球人」の真髄に迫るシリーズ。ストリップ劇場チームの助っ人投手からテスト入団でプロ入りした土橋正幸さんの後編は、シーズン30勝の原動力となった”江戸っ子投法”について語られる。


東映は1962年の日本シリーズを制し、土橋正幸投手はMVPに選ばれた 写真=共同通信

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 1957年8月1日、近鉄戦、土橋さんは完封でプロ初勝利を挙げた。スコアは1対0だった。

「今考えると、自分で言ったらおかしいんだけどさ、よくやったなって思うね。それがきっかけでその年は5勝しましてね、次の年、昭和33年からは先発の枠に入って、その後、9三振だとか16だっていってね、一応、それなりの、土橋ってヤツがいるってことは知ってもらえたのかなと」

「9三振」とは、昭和33年=1958年5月31日、東映の本拠地=駒沢球場で行なわれた西鉄戦。エースの稲尾和久と投げ合った土橋さんは1回二死後、大下弘から4回の中西太まで9者連続で三振を奪った上、当時の新記録となる1試合16奪三振を達成した。

「あのときは15三振を7回で取っちゃった。8回は取れなくて、9回も取れなくてツーアウトになったんだけど、3対0で勝ってて相手が稲尾でしょ? わたしはもう、それだけでいい、勝てればいいと思った。ところが、次のバッターのセカンドゴロ、エラーになってね。次に河野昭修(こうの あきのぶ)さんが代打で来て、それで三振を取ったんです。

 あのとき、これも自分で言ったらおかしいけど、150キロぐらい出てたと思います。なにしろ炎天下の二軍で鍛えられて、スタミナありましたから。しかしホントにね、9連続なんてのも、 魚屋からプロってのと同じように、フィクションみたいでしょ?」

 58年の『ベースボールマガジン』7月号には、前年に9連続奪三振を達成した阪急(現・オリックス)の梶本隆夫と握手をする土橋さんの写真が載っている。キャプションに〈二人の三振奪取王〉とある。そして何より表紙には、同年にデビューしたゴールデンボーイ、巨人の長嶋茂雄と土橋さんが並んでいる。僕は持参した資料の中から表紙のコピーを抜き取って差し出した。

 一瞬、眉間にしわを寄せて眉をつり上げ、眼鏡の奥で目を見開いた土橋さんは「それは知りませんねえ!」と言った。コピーを手にとってしばらく眺めたあとは表情がやわらぎ、「わたしの孫に見してやりたいよ。はっはっは。本当に知りませんでした」と続けた。

 前年までは無名でまだ実績のない土橋さんが、野球雑誌で六大学出身のスーパールーキーと同等に扱われたのだ。いかに奪三振記録の注目度が高かったか、うかがい知れる。実際、翌日の西鉄戦、駒沢球場は2万8000人の大観衆で埋まり、初の満員札止めになったという。土橋さんの新記録が話題になってファンが集まった可能性は大いにある。

「次の日の新聞を見て来た人はいたでしょう。わたしは試合後、『新記録だから、いくらケチな東映でもご祝儀出るよ』って監督の岩本義行さんに言われて、お金ないのに同僚と飲みに行ったんです。ご祝儀を当てにして。浅草で午前1時頃まで飯食って、銀座、渋谷と朝5時頃まで行って、朝帰りですよ。そしたら超満員でしょ? 

 結局、その試合も9回に投げたんです。あの当時はそれが普通でしたから。今みたいに1回先発して、5日も6日も休める時代じゃないでしょ? 毎日ベンチ入ってるしね。だからその年から50試合、60試合と投げていったけど、なるべくシーズン中は余計なことしないで体を休めよう、休めようってそんなことばっかり考えてましたね」

 58年は54試合登板で21勝を挙げ、59年には63試合登板で27勝。土橋さんは一躍、エースの座にのし上がっていた。翌60年には12勝23敗と、開幕前の調整がうまくいかなかった影響で大きく負け越したが、チームで二桁勝ったのも、200イニング以上を投げたのも土橋さんだけだった。

「球団は『12勝23敗だから年俸は10パーセントダウン』だって言う。『冗談じゃない。俺が1人で頑張ってんのに、何が10パーセントだ』と。それで契約しないでいたら、この辺の店で川上、藤田に呼ばれてさ、『巨人に来ねえか?』って誘われたんだよ」

 当時、川上哲治はコーチ、藤田元司は現役の投手。そういう立場で補強に動いていたのか、と驚かされる。実際、土橋さんがよく行っていた赤坂のナイトクラブに巨人関係者も来ていて、その店のママを介して川上、藤田との交渉が持たれたという。

「いろいろ条件面も言ってくれてね。『年俸は東映の倍だ』って言う。それはわたしだってプロだもの、心が動きますよ。ただ、ママは『監督さんと会ってくれない?』って言ってたのに、水原は来なかった。川上は『今日は、オヤジはほかの用事で来られない』って言ってたけど、実はもうその時点で、監督が川上に代わるのは決まってたと思うな」

 60年12月、「名将」と呼ばれた水原茂が巨人の監督を辞任し、東映の監督に就任した。一方で巨人の監督に昇格が決まっていた川上とすれば、土橋さんを獲得して投手陣を強化したかったのだろう。その年、巨人は新人の堀本律夫が29勝と大活躍するも、別所毅彦が引退し、藤田は右肩痛。実績ある柱が不在だった。

「年が明けて、わたしがまだ東映と契約しないでいたら、水原から『巨人の話は哲に断った。俺は東映で契約のお金まで口を出せる立場になった。だから減俸はしない。おまえのほしいだけもらってやるよ』って言われて、それでやっと契約したんですよ」

 巨人に引き抜かれそうな東映のエースを、新監督が手放すわけにはいかない。そこで自ら引き留める策を講じ、残留させた──。当時の大エースの存在を実感できる顛末。1人の特別な投手を中心にチームが回り、成り立っていたことが、これほどよくわかるエピソードはないのではないか。

「それもフィクションみたいでしょ? で、また東映で頑張ろうと思ってね、それで30勝したんですよ。30勝しても最後の最後で負けて優勝はできなかったけど、翌年は勝ちましたからね」

 水原監督のもと、投打とも戦力が充実した東映は62年、尾崎行雄を筆頭とする新人補強が功を奏し、独走で球団初の優勝を果たす。20勝の尾崎が勝ち頭で土橋さんは17勝だったが、投球回数は272イニングでチーム断トツ。4勝2敗1分で阪神を倒した日本シリーズでは、実に6試合に登板して2勝。捕手の種茂雅之(たねも まさゆき)とともにMVPに選ばれている。

「水原は血も涙もない監督だった。でも、監督はそれぐらいじゃないと優勝できないね。わたしは結婚して、仲人、水原だったけど、シーズン中、水原と会話もなかったし、一度も褒められたことがない」

 あくまで「水原」と呼ぶところに、名将と大エースとのヒリヒリした関係性が浮かび上がる。が、土橋さんがエースになった要因、”江戸っ子投法”のことをまだ聞けていない。

 30勝した61年も稲尾が42勝するなど、タイトルは獲れなかった土橋さんだが、無四球試合46は歴代4位。61年には56イニング連続無四死球を記録し、393イニングを投げながら与四球45個だったのをはじめ、四球の少なさが際立つ。そこに”江戸っ子投法”の真髄があるように思う。ちぎっては投げ、ちぎっては投げで四球が少ないので試合が早く終わり、審判からの評判がよかった、という話も残っている。

「ちぎっては投げ、で、確かに試合時間、短かったね。当時、7時に始まって9時半頃に終わるとさ、守ってる先輩に『ダメだよ』なんて言われました。遊びに行くのが忙しいから、2時間半でも長いって。はっはっは。だから、モタモタモタモタやらなかったよね。

 だいたい、このバッターがきたらどういう組み立てで、っていうのは頭ん中で描いて計算してましたから。計算するためには一生懸命、いいバッターほど研究しました。わたしは魚屋のあんちゃんだったけど、野球だけは勉強したんでね。でなきゃ、ちぎっては投げ、なんてできないですよ」  

 聞けば当たり前のように感じるが、テンポよく投げ込む”江戸っ子投法”はボールの勢いとコントロールで成り立つものと解釈していた。実際、土橋さんのピッチングを稲尾が解説した本にも、〈余計な駆け引きを必要としない、圧倒的な球威が土橋投手を支えていた〉〈コントロールは悪くないが、実はコーナーを突く細かい制球力で組み立てていたわけではない。ストライク先行を心がけていた〉と記されている。ゆえに計算や研究をあまり必要としないのでは? などと思っていたが、じつは違った。”江戸っ子”の気っ風のよさ、威勢のよさ、というイメージに引っ張られてしまっていたのか……。

「プロのバッターっつうのは1番から8番までね、ピッチャーを除いたら、甘い球なら誰でもホームランを打つぐらいの力はあるわけでしょ? だからそのへんも常に計算して投げてました。で、いいバッターの前にランナー出さないとかね、そういうのを全部、考えながらやってましたから」

 話題はそれから「いいバッター」へと移り、南海戦で野村克也に打たれた決勝ホームランの思い出が語られると、野村が楽天の監督だった当時、沖縄・久米島のキャンプまで田中将大を見に行った話につながった。図らずも田中が出てきたところで、僕は沢村賞の要望の件について尋ねた。

「あれはね、少年野球の子どもに真似してほしくない、というのがあったんです。われわれ指導に行って、子どもたちを見てますから。だいたい、あんまりいいもんじゃないですよね。まぁ、本人がいいか悪いかは別ですよ。でも、完投勝ちで試合終了とかならまだいいけど、三振取るたびに吠えたりするのはね、はなっからよくない。だから、われわれの時代のエースは誰もやらなかった……。勝負というものは、相手がいて初めて勝負なんです。沢村賞を獲るようなピッチャーには、そこをわかってもらいたいんですよ」

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 取材の翌日、担当編集者宛に土橋さんから電話があり、〈長嶋さんと一緒に写っているベースボールマガジンの表紙のコピーを自宅に送ってもらえないでしょうか。孫に見せてやりたいんです〉と言われたという。僕はすぐさまコピーを取って速達で郵送した。

 土橋さんと長嶋は1958年のオールスターに初出場。パ・リーグ監督の三原脩は「ほかのヤツに打たれてもいいけど、長嶋だけには絶対打たすな」と投手たちに指示した。土橋さんは「わたしも16三振を取って行った手前さ、長嶋を三振に取ってね」と言っていた。表紙がその勝負の記憶を呼び覚ましたのだった。

 翌日、書店で立ち読みしていたら着信があり、見ると〈非通知設定〉で、店を出ながら気のない感じで「はい」と出たら、「高橋さんですか? 土橋でございます」としゃがれた声が聞こえて気が動転した。「先ほどいただきました。これで孫に自慢できます。ありがとうございました」と言う土橋さんに僕は恐縮して「はい」「そうですか」と繰り返すばかりだったが、丁寧で品のある口調に身が引き締まる思いがした。土橋さんから田中に出された要望が、頭の中に再び浮かび上がった。

(2012年4月14日・取材)