5月25日公開予定の映画『ゲティ家の身代金』。ハリウッドのスキャンダル騒動で、石油王ジャン・ポール・ゲティ役だった俳優が降板。88歳の名優・クリストファー・プラマーが急きょ代役を務めることになった(東洋経済オンライン読者向けプレミアム試写会への応募はこちら) ©2017 ALL THE MONEY US, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.

セクハラ被害を告発する「#Me Too」「Time's Up」ムーブメントがハリウッドに広がって久しいが、5月25日公開予定の映画『ゲティ家の身代金』は、このムーブメントを今後語るうえで欠かせない1本になるだろう。といってもそれは内容面というより、本作の制作過程で大きく影を落とした――という点においてだ。


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本作のメガホンを取ったのは『エイリアン』(1979年)、『ブレードランナー』(1982年)など幅広いジャンルで数々の名作を世に送り出してきたリドリー・スコット監督。現在80歳のスコット監督の創作意欲はますます旺盛で、近年も『オデッセイ』(2015年)や『エイリアン: コヴェナント』(2017年)など数々の話題作を発表している。そんな巨匠が最新作の題材に選んだのは、『フォーチュン』誌によって世界初の億万長者に認定された、実在のアメリカ人石油王ジャン・ポール・ゲティをめぐる事件だった。

石油王ゲティの孫が誘拐された事件を映画化

世界でも屈指の大富豪でありながら、(それゆえに?)希代の守銭奴であったゲティは、1973年に最愛の孫が誘拐された際も、身代金1700万ドルの支払いを拒否。総資産額50億ドルと言われた彼の懐具合からすれば、そんな額を支払うのはたやすいだろう――という考えは彼には当てはまらない。

「ここで身代金を払ったら、他の孫にも危害が及ぶじゃないか」というのが彼の言い分だが、希代の守銭奴の言い分を鵜呑みにしていいのか。このゲティという男の複雑さが周囲を振り回し続け、やがて事態はとんでもない方向へと転がっていく――というのが本作の物語だ。全編を通してスコット監督の語り口は冴え渡り、133分という上映時間を感じさせないほどに観客をハラハラさせてくれる。


ゲティの孫が誘拐され、身代金1700万ドルを要求される ©2017 ALL THE MONEY US, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.

もともとこのゲティ役は、『アメリカン・ビューティ』『セブン』などで知られるケヴィン・スペイシーが選ばれており、賞レースにも有利な12月公開を目指して映画も完成させていた。しかし昨年の10月、スペイシーが過去に行った当時14歳の少年に対するセクハラ疑惑が浮上。さらに別の被害者が続々と名乗りをあげたことで世間は騒然となり、スペイシーにも厳しい対応で臨む必要が出てきた。

スパイシーは主演ドラマ「ハウス・オブ・カード 野望の階段」をクビになったほか、エージェントからも契約を打ち切られるなど、ハリウッドからは事実上の追放状態になる。その余波は、当然この作品にも及ぶことになる。

監督、プロデューサー陣の考えは、「たとえ公開直前であろうがスペイシーの出演シーンは使用しない」というもので、そこに迷いはなかったという――。USAトゥデイ紙によると、制作会社が全額負担した追加撮影費は約1000万ドルに達するというが、再撮影は即座に決断された。

公開1カ月半前、撮り直しを決断

公開まで1カ月半という段階で、すでに完成しているこの規模のハリウッド映画を撮り直すというのは異例の事態で、それだけセクハラ問題に対する危機意識が深刻なものだったといえる。

とはいえ、ロケ地の確保、共演者たちのスケジュール調整など、クリアしなければならないハードルは多々あった。そこで代役として白羽の矢が立ったのは『サウンド・オブ・ミュージック』のトラップ大佐役などで知られる名優クリストファー・プラマーだった。ブロードウェーの舞台「シラノ」でトニー賞ミュージカル主演男優賞を獲得したのをはじめ、2011年の映画『人生はビギナーズ』でアカデミー賞助演男優賞を獲得するなど、その実力はトップクラス。もともとスペイシーは特殊メークで老人に変身していたが、現在88歳のプラマーには老けメークが必要ない、ということも大きかったと思われる。

そしてそんな困難を乗り越えた彼らはたった9日間でスペイシーが出演していたシーンをすべて再撮影。プラマーも「リドリー(・スコット)はビジョンがはっきりしており、頭の中ですでに編集しているので何度もテイクを重ねる必要がなかった。ヒッチコックのような古典的な監督だ」とその撮影を振り返る。

迷いなく、的確なリーダーシップで現場をまとめ上げたスコット監督。その演出ぶりを、主人公で誘拐されたジャン・ポール・ゲティ3世の母ゲイルを演じたミシェル・ウィリアムズは、「リドリーは演出の意図を無駄なく、端的に伝えることのできる監督。撮影もだらだらと続けない」と証言する。


主人公で誘拐されたジャン・ポール・ゲティ3世の母ゲイルを演じたミシェル・ウィリアムズ ©2017 ALL THE MONEY US, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.

そうやって映画を完成させたが、再撮影の影響を感じさせない、風格漂う1本に仕上がっている。そして2017年12月25日に初日を迎えた同作は、批評家筋から大絶賛。代役としてゲティを演じたプラマーは、アカデミー賞やゴールデングローブ賞の助演男優賞にノミネートされた。この崖っぷちからの逆転劇に、映画界から驚きと称賛の声が沸き起こった。

代役のプラマーはアカデミー助演男優賞にノミネート

だが、この映画の余波はそれだけにとどまらない。元CIAの人質交渉役・フレッチャー・チェイスを演じたマーク・ウォールバーグの再撮影時のギャラが150万ドル、そしてミシェル・ウィリアムズの再撮影時のギャラが1000ドルであったことが今年1月に大々的に報じられたのだ。マーク・ウォールバーグは2017年、米『フォーブス』誌の恒例企画「最も稼いだ俳優」に選ばれているが、報酬は主演のウィリアムズをはるかに上回る額。2人が同じエージェンシーに所属していたことも、この問題の根深さを感じさせた。


元CIAの人質交渉役・フレッチャー・チェイスを演じたマーク・ウォールバーグ ©2017 ALL THE MONEY US, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.

ハリウッドでは以前から、男女の報酬の格差が指摘されてきたが、その事実があらためて浮き彫りになった形だ。しかしその後、ウォールバーグは、再撮影時のギャラ150万ドルをセクハラ被害者を支援する「Time's Up」基金に寄付することを表明。その決断に、ミシェルも称賛の声を送った。

映画は社会を映し出す鏡とはよく言われる言葉だが、この映画をつくる過程もまた、ハリウッドがセクハラや男女格差について明確な「ノー」を突き付けた形となった。もちろんこんな裏話ができるのも、この映画自体がすこぶる面白いから、という前提条件があるからなのは言うまでもない。