京大iPS細胞研究所のウェブページに掲載されている、山中伸弥所長のコメント

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若手研究者の不安定な雇用が、さまざまな歪みを生んでいる。今年1月、京都大学iPS細胞研究所の助教(36歳)による論文捏造が発覚した。動機の背景には、成果を出さなければクビという焦りがあったと報じられている。日本の研究機関の予算は乏しく、山中伸弥所長も「期限付き雇用」を主張するしかないという現状がある。これでいいのか――。

■iPS細胞の論文捏造のウラにある「働き方」問題

京都大学iPS細胞研究所で発覚した論文捏造問題が大きな騒ぎになっている。

問題の論文は、研究所の助教(36歳)がiPS細胞(人工多能性幹細胞)から脳の血管内皮細胞を作り出すことに成功したという内容だが、それを裏付ける実験データに多くの手を加え、根拠のない成果を作り上げたものだった。

iPS細胞の研究でノーベル賞を受賞した山中伸弥所長も1月22日の記者会見で捏造を認めて謝罪している。研究所のホームページで山中所長は以下のコメントを出している。

「昨年(2017年)に発表された論文の一つにおいて、筆頭・責任著者であるiPS細胞研究所の教員(特定拠点助教)が、研究データの改ざんやねつ造を行っていたことが、学内の調査により明らかとなりました。多くの方から期待を頂いておりますiPS細胞研究所において、このような論文不正を防ぐことが出来なかったことに、所長として大きな責任を感じています。心よりお詫び申し上げます」

iPS細胞の論文捏造といえば、2014年に一時はノーベル賞級と騒がれた理化学研究所の小保方晴子氏のSTAP細胞騒動を思い出す。

山中伸弥所長は捏造の原因や背景に言及していない

今回、山中所長は潔く謝罪しているが、なぜ助教が論文を捏造したのか、その原因や背景にまでは言及していない。

原因として、限られた期間と予算で成果を出さなければならない研究者の評価システムの問題を指摘する声がある。また、その背景には若手研究者の不安定な雇用の実態を指摘されている。

大学などの研究機関の研究者は「任期付き」の研究者が増えている。つまり、研究者という身分でも有期契約労働者なのである。

2017年度の国立大学の40歳未満の若手教員のうち約64%が任期付きであり、07年度の約39%から大きく増加している。任期付きが、たった10年で30%近くも増えていることには驚かざるをえない。

優秀な研究者であれば契約を更新し、引き続き雇ってもらえるが、そうでなければ別の職を探さなければならない。ちなみに、捏造した助教も2018年3月末が雇用期限だったと報道されている。成果を出そうと焦って不正に走ったと想像できなくもない。

■捏造した助教も2018年3月末が雇用期限だった

じつはこうした雇用の不安定な契約社員を安定雇用に切り替えようという政策が「無期転換ルール」だった。

2013年4月に施行された改正労働契約法の18条では、通算契約期間が5年超の有期雇用労働者に無期転換を申込みできる権利を与えた。

通算5年のカウントは2013年4月1日以後に開始する有期労働契約が対象になる。したがって契約期間が1年の場合、更新を繰り返して6年目の更新時を迎える2018年4月1日から労働者は無期転換の申込みができ、1年後の19年4月1日から無期労働契約に移行する。仮に18年4月1日から1年間の契約期間に無期転換の申込みをしなくても、次の更新以降でも申込みができるので無期転換権が消滅することはない。

厚生労働省では今年の4月1日に無期転換ルールが適用される有期雇用労働者は約450万人と見ている。そして、捏造した助教を含む身分の不安定な研究者も本当はこの対象になるはずだった。

ところが……。

▼研究者の「無期転換」を山中所長は阻もうとしたのか

大学や研究機関の「有期契約」の教員・研究者などに関しては、無期転換請求権が発生する期間を5年超から10年超に先送り(延長)する特例措置を設けた法律が2013年12月に成立したのである。

その背景にはいったい何があったのか。

「5年超の有期雇用労働者に無期転換を申込みできる権利」の行使を阻んだのは政府や大学・研究機関だった。そして、それに一枚噛んでいたのがiPS細胞研究所の山中所長自身だったことはあまり知られていない。

改正労働契約法施行前の2月28日。当日開催された衆参議院表祝行事で山中氏はこう述べていた。

「(2013年4月1日から施行される改定)労働契約法では、有期雇用は5年までで、次の契約をする場合には無期(労働契約)としなければならないとされている。大学にとっては、10年間プロジェクトならば10年間雇用する予算がつくが、5年間雇用した後、無期で雇用しなければならないとなると5年を超えて雇用することが難しくなってしまうため、優秀な人材が集まらないのではないかと危惧している。実際、問題になるのは5年後かも知れないが、何らかの対策が必要だ」(衆参表祝行事での発言要旨)

なぜ5年超の無期転換では優秀な人材が集まらなくなるのか。少しわかりづらいので補足しよう。

大学での研究は、交付金などの公的補助金による期間限定型のプロジェクトが多い。研究者はプロジェクトが終了すると他の大学のプロジェクトで研究活動を続けるが、5年で無期雇用に転換すると、大学はその後も雇い続けなくてはならないが、予算的にそれが難しいので5年を前に雇い止めにするしかない。それでは優秀な人材の確保が難しいというのが山中氏の発言の趣旨だ。

■研究者の無期雇用によるコスト増を大学側は恐れた

日本では若手研究者の多くが有期雇用契約であり、複数の有期雇用契約を繰り返し、教育研究経験を積み重ねることによって能力の向上を図る。よって、5年超の無期転換はむしろ研究者の能力向上の機会を奪うのではないかという大学関係者の意見はもともとあった。

だが、これは表向きの理由であり、本音では研究者などを無期雇用にすればコストアップにつながることを大学側は恐れていた。多くの大学は賃金が安い有期雇用契約の非常勤の講師・研究者への依存度が高く、無期雇用に転換すると専任教員との待遇格差が問題化することを懸念していた。山中氏の前出の発言もそれに添ったものだった。

2012年まで、政府の総合科学技術会議は改正労契法(無期転換)について容認姿勢をとっていた。総合科学技術会議有識者会議は2012年5月31日に「労働契約法の改正案について」という文書を発表している。

その中で「無期労働契約」に転換した労働者を合理的な理由に基づいて解雇することが否定されるものではなないとし、プロジェクト型の研究活動を運営していくことは可能だと述べている。そのうえで「大学機関等においては、このための体制整備に適切に取り組むとともに、単に無期労働契約に転換することを忌避する目的を以て研究者等を雇止めすることがないよう望みたい」としていた。

つまり、この時点では改正労働契約法の5年超の無期転換ルールの施行を前提にした周知活動を行っていたのだ。

▼山中所長がノーベル賞に選ばれた後、事態は大きく変わる

ところが、2012年10月に山中氏がノーベル生理学・医学賞に選ばれ、「5年超の無期転換では優秀な人材が集まらなくなる」という趣旨の発言をしたことで、事態は大きく変わる。

2013年4月1日の労契約法施行後、同年の4月11日に開催された総合科学技術会議有識者議員懇談会で、橋本和仁議員(東大教授=当時)は「大学や国立研究所において労働契約法改正に伴う所謂雇止めの問題が非常に大きな問題になっています(中略)そこで産業競争力会議においても、この労働契約法に関して、研究者については別の形を考えてほしいということを依頼している」(議事概要)と語っている。

橋本議員が言う「別の形」とは何か。それは無期転換を定めた労働契約法18条を改正し、「大学の研究者等」を適用除外とする案だった。実際に日本私立大学団体連合会は下村博文・文部科学大臣(当時)に提出した労働契約法に関する要望書(2013年6月26日)の中でこう述べていた。

「私立大学における有期契約労働者については、無期労働契約への転換ルールの適用から除外するなど、弾力的な運用が可能となるよう強く要望します」

それに先立つ6月7日には政府は総合科学技術会議の意見を反映した「科学技術総合戦略」を閣議決定し、その中で「大学等における改正労働契約法の施行等に係わる課題の精査及び対応策の検討を速やかに行い、教育研究全体として望ましい状況を創出」と記載している。

■iPS細胞の論文捏造は研究者の「雇用不安」が原因か

それに続く6月14日に安倍政権が閣議決定した「日本再興戦略−JAPAN is BACK−」の中ではこう述べられている。

「労働契約法の若手研究者のキャリア形成に対する影響を懸念する指摘もあることから、研究現場の実態を踏まえ、研究者等のキャリアパス、大学における人事労務管理の在り方など労働契約法をめぐる課題について関係省が連携して直ちに検討を開始し、1年を目途に可能な限り早急に結論を得て、必要な措置を講ずる」

抽象的な言い回しであるが、ここでも研究者のキャリア形成、つまり前述した「無期雇用が研究者の能力開発の機会を奪う」という表向きの理由を掲げ、要するに研究者を労働契約法の適用除外について検討せよ、と言っているのだ。ちなみに改正労働契約法は民主党政権時代に国会で成立したものだが、安倍政権は成長戦略の名のもとで研究者の雇用安定よりも非正規の状態を存続させることを選んだことは注目すべきだろう。

しかし、労働契約法を改正するとなると、手続き上、公益委員、労働者委員、使用者委員の3者で構成する厚労省の「労働政策審議会」で議論する必要がある。当然「研究者だけをなぜ適用除外とするのかと」いう労働者委員の反発も予想される。また、もともと無期転換に反対していた使用者委員にしても「大学だけを特別あつかいするのであれば、うちの業界も適用除外にしてくれ」という意見が出るかもしれない。そうなれば審議に時間がかかるし、改正法案成立も危ぶまれる。

▼なぜ政治家が突然、議員立法で改正法案を提出したのか

そこで浮上したのが議員立法だった。2013年10月31日。自民党科学技術・イノベーション戦略調査会(塩谷立会長)が議員立法で臨時国会にすでにある「研究開発力強化法」を一部改正する法案を提出することを決定した。

この法案では、労働契約法に特例を設け、労働契約法第18条第1項の無期転換制度の通算契約期間を5年超から10年超に延長した。

具体的な対象者は(1)科学技術に関する研究者又は技術者、(2)研究開発の企画立案、資金確保、知的財産権などを担当する専門的知識を持つ人、(3)大学などと共同研究する民間企業の研究者――である。

議員立法は内閣提出法案と違い、厚労省や文科省など関係省庁の手続きを経ることはない。もちろん、労働政策審議会で議論する必要もない。法律の作成に当たっては内閣法制局の手は借りても、行政手続法による1カ月前の公表やパブリックコメントの募集も不要だ。

しかも当時は、特定秘密保護法の成立を巡って世間の注目を集め、国会が紛糾している最中の11月27日に法案が国会に提出された。その結果、衆・参両議院で十分な審議を経ないまま、わずか9日間という早業で可決・成立したのである。

■成果を出さなければ次はないと研究者に言い続けるのか

言うまでもなく有期契約労働者の雇用安定を目的としたのが無期転換ルールだ。

その前提を踏まえつつも、研究者だけを通算契約期間5年超から10年超へと例外扱いにしたのは、有期雇用を繰り返し、その中で研究において切磋琢磨することで能力向上を図ることができるというのが表向きの理由だった。

とはいえ、研究者といえども一定の収入を得て衣食住を営む一般生活者である。「成果を出さなければ次の職はない」と言われ続けるのは、しんどいことであるはずだ。もちろん、それを理由に不正に手を染めることは許されないが、すべての研究者が契約更新し続ける強いメンタルとスキルを持っているわけではないだろう。

今回のiPS細胞の論文捏造は、担当の助教がこうした雇用不安を強く感じるあまり犯してしまった可能性も否定できない。

有期契約の若手研究者に対し、成果を出さなければ次の職はないという“縛り”を設け、成果を競わせる現在の雇用方法には、副作用として研究不正発生のリスクが今後も伴うだろう。それでも、この雇用スタイルを続けるのか。

それとも、無期契約者として、雇用が安定した環境下で研究に専念させ、研究開発の向上につなげようとするのか。

どちらが日本の科学技術力の発展につながるのか、山中氏を含む研究組織を率いる「管理職」や、この国の学会のトップに改めて考えてもらいたい。

(ジャーナリスト 溝上 憲文 写真=時事通信フォト、iStock.com)