『わたしの神様』(幻冬舎刊)。タレント・エッセイスト小島慶子さんの処女小説。テレビ局を舞台に次から次へと事態が展開する内容に、一気に読んでしまったという声が多数。

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出版界のリビング・レジェンドの一言で小説家・小島慶子は生まれた。2013年創刊した女性誌DRESSで対談連載を持つことになっていたタレント・エッセイストの小島慶子が、当時出版元の親会社であった幻冬舎社長・見城徹に「対談連載じゃなくて、小説を連載した方がいいんじゃないか」と言われたのをきっかけに小島の処女小説『わたしの神様』は生まれた。

見城徹と言えば、かつて尾崎豊や松任谷由実などの大物を次々と口説き本を書かせ、数々のミリオンセラーを世に送り出し続けていることで有名な伝説的編集者だ。その見城が、小島が当時新潮45で連載していた手記を読み、彼女の小説家としての資質を見抜いたのだ。

TBSで局アナ小説執筆は未知の世界であり、戸惑いもあったという。小説執筆は未知の世界でありと戸惑いもあったという。しかしその年の年頭に別々の二か所の神社で引いたおみくじ両方に、「人の言うことは素直に聞け」と書かれていたので挑戦してみようと思ったと小島はいう。
「どれだけ私は素直じゃないって思われているんだよ、と思いました(笑)。でも一生のうちで小説を書いてみたら、と言って頂けることもそうはないですし、人の話は素直に聞いてみようと思い受けることにしました」

毎月7000字の締め切りに追われる生活は大変だったと言いながらも、連載には二つの楽しさがあったと小島はいう。一つは、フィクションという形式の持つ自由さだ。身の回りで起きたことを書くエッセーの場合は、関係各所に迷惑がかからないように細心の注意を払う必要があるが、フィクションは「いわば壮大な喩え話」であり、その形式が人をいかに自由にするかを痛感しながら毎回執筆していたという。

そしてもう一つは、登場人物との”対話”だ。

「小説を書く作業は登場人物に会いに行くみたいなものなので『この人は今回は何を話すのだろう?』どういう面を見せてくれるのだろう、という気持ちになるんです。『ああ、今日はこの人のこういう面を知ることができたな』って充実感って、人と会った後にはありますよね?そういう感じが段々味わえてきたのが楽しかったです」

『わたしの神様』は、視聴率低迷中のニュース番組をめぐる女子アナを中心としたTV局周辺の人々を描く群像劇だ。野心と嫉妬とスキャンダルが渦巻くエンターテインメント作品に仕上がっているが、局アナ出身の小島が書いたとなると当然登場人物のモデルの答え合わせを求める声も多いだろう。

「この小説は、”女子アナ”の事実のディテールをぼかしながら例え話に仕立てたものではありません。むしろ"女子アナ"って仕事が成立する世の中自体が悪い冗談みたいだよな、と思いながら仕事をしていたので、あの仕事が象徴する日本社会の男女観や生きづらさをそのまま書いた感じです。」
こうして事態を相対化するメタ視点は小島自身の、そして小説家小島慶子としての大きな特徴だ。

見城が目を留めた先述の手記は、小島が母親との確執について書いたものだが(『解縛:しんどい親から自由になる』として新潮社から発売中)、こうした独白的エッセーが著者自身のセラピーの一環として書かれることも多い中、小島の場合は完全に事態を相対化し切った上で書き上げている。

「母は私が母の望んだように育つだろうと思い込んでいたんですね。でも私は、『私はママじゃないから、ママのように生きることはできないし、ママがこうしなさいということが、私のしたいことと違うことがあるんだ』って言い続けたんです。でも母には見たいものしか見えないので、見たいような娘しか見ないんです。聞きたいような話しか聞かないんです。私も母との関係をあきらめきれないで、主観しか持たない母に対して客観をいくつも使い分けることによって、対話の道を拓こうとした日々でした」

この母親との関係は小島にメタ視点だけでなく、認知的斉合性に対する興味も与えた。認知的斉合性とは社会心理学の用語で、人は心のバランスを保つために自分が見たいようにしか現実を認識しないことを言う。これは実は小島の小説の大きなテーマになっている。

「人は誰でも、自分が見たいように世界を見ることによって生き延びようと必死なんじゃないかと思います。どんな風に生まれてくるかなんて誰も選べなかった。だから生きることってシンドイんです。それは美人だって、ブスだって、男だって、女だって、お金持ちだって、貧しい家の生まれだって一緒です。だから与えられた場所でなんとか生き延びるしかないんですよ。物事の見方を変えるとか、何かをわかろうとしないとかいうことで生き延びるしかないという、その切羽詰まった感じは、万人が同じなんじゃないかと思います」

『わたしの神様』に登場する人物は皆心に醜いところを持っている。しかし同時に皆必死で生きている。

本作を嫉妬や承認の物語として読むことはできる。もちろん女子アナの内情暴露本と読むこともできる。しかし、本来的に分かり合うことのできない他人同士がどうすればいたわり合えるのか、という小島の人生のテーマを念頭に入れた上で読むと、また一段深い味わいをえることができるのは間違いない。

すでに次回作の話も来始めているという小島は、次回作は群像劇ではなくもう少し一人の人物を掘り下げて書いてみたい、という。小説家・小島慶子の今後の活動から目が離せない。
(文中敬称略)
(鶴賀太郎)