【江戸時代】女装してお客を取る美少年たちは、脱毛必須&おなら防止のため芋も禁止だった

みなさまごきげんよう、歴史エッセイストの堀江宏樹です。とつぜんですが、多くの場合「女装してお客を取る、歌舞伎役者志望の美少年たち」を指す、陰間(かげま)の語源って何か、ご存じですか?

スター俳優ではない日陰の身、までは想像できるかもしれません。しかし、一説に陰間とは、平安時代の武士・源義家がかわいがった、鎌倉景政(かまくらかげまさ)という勇猛な武将の名前から来ているそうです(源義家と鎌倉景政ら二人に恋愛関係があったかは、不明)。

鎌倉景政の強さを語るエピソードには、自分の目に敵の射た矢が突き刺さっても猛然と戦い続けたという話があります。さらに彼の武勇伝はつづきます。目に刺さった矢、これを引き抜かねばならない時がきますよね。運悪く奥深くまで突き刺さっており、それがなかなか抜けないので、彼の顔に足をかけて引き抜こうとした手下の武士を「無礼者!!」と成敗するくらい、鎌倉景政には体力・気力がありあまっていたそうで……。

その「かげまさ」の名を縮めたのが、「かげま」……らしいのですが、それと女性とみまがうような美貌をほこる、江戸時代の陰間たちのイメージからは想像もつきませんよね。また、陰間という言葉も男性専用ではなく、日陰者なんて陰口をたたかれがちな、お妾さん(愛人女性)にも使われていたんです。

江戸時代初期の陰間は女装ではなく、普通の若い男性の格好をしていたそうです。ではなぜ、陰間が女装をするようになったかには、理由があります。陰間には女形俳優を目指している少年が多かったのです。そして、彼らにお客を取らせることが人気になったため、陰間といえば、金で買われる美少年という意味になっていったのですね。こうして陰間は18世紀前半に全盛期を迎えているんですね。

当時、芳澤あやめというカリスマ女形がいました。彼は私生活も女装のまま、つまり女性として暮らしていました。奥さんはいるんですけれど(笑)。そんな自分の生活を、女形を志す弟子たちにも勧めていた彼が亡くなったのが1728年のこと。陰間としてのアルバイトは、心身ともに、女性になりきれているかを女形として試される試練の場でもあったのです(……というようなことを、歌舞伎座のエライ人たちは少年たちに説いたのだと思います。実際は、パトロンである上客との距離を縮めるための方便としての側面が強かったでしょうね)。

陰間はあくまで、非日常的な存在であらねばなりません。お客の前でプーとおならをするなどもってのほかですから、芋を食べることが禁止されていました。江戸時代は第二次性徴が現れる時期も現代よりも遅めですが、基本的にヒゲは毛抜きで全て脱毛です。まぁ、ヒゲの自己脱毛は江戸時代のフツーの男性も、せっせと行っていたことではありましたが。

陰間のお花代は高く、江戸でもハイクラスな花街・吉原の中級の遊女と同じくらいだったというお話も前回しましたが、これもこの手のメンテナンス代と考えたほうがよろしいですね。

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著者:堀江宏樹
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※写真と本文は関係ありません