今回の統一球問題について取り上げ始めた時期に、ある方から「そんなに統一球問題が重要なのなら、その時期の記録はアスタリスク付にしろ、それができないのなら、そんなに騒ぐな」という趣旨のコメントをいただいた。
ご本人がどう思って書きこまれたのかは別にして、非常に示唆に富むコメントだった。

アメリカで野球のプロリーグが発足して1世紀半が経とうとしている。この間、野球のルールも、環境も、作戦や用兵もずいぶん変わった。

先日、サイ・ヤングのキャリアSTATSをご紹介した。投手の最高の栄誉たる賞に名を残すこの投手は、通算511勝を挙げている。
しかしながら、その中にはピッチャーズプレートから本塁までの距離が、15.24mと今より3m以上も短かった時代の勝利数も含まれている。

それどころか、MLBの通算記録の中には、4ボールではなく5ボールだった時代のものや、投手が下手投げだった時代のものまで含まれている(20世紀以降などで区切ることもあるが)。

日本のプロ野球はまだ80年の歴史しかない(公式記録がつけられてからは78年)が、それでも、厳密とはとても言えない記録が無数に見られる。
昔と今では規定打席や、規定投球回数の基準が全く違った。投手は規定投球試合数の時代もあった。
打者でも、規定打席ではなく規定打数だった時代もあった。四球が多い打者は高打率でもランキングに載らなかった時代もある。
その時代の防御率1位も、首位打者も、今のそれらと同列に並べられている。

そもそも野球記録の代表たる本塁打記録からしておかしなものだ。王貞治は1964年55本塁打を打った。これは、前年、野村克也がマークした52本を抜く「日本記録」だとされた。
しかし、野村克也は150試合制で52本、王貞治は140試合制で55本なのだ。
試合数が違えば、本塁打を打つチャンスも全く違ってくるのは子どもでもわかる。
しかしメディアもファンも何も言わなかった。
昨年のウラディミール・バレンティンの60本塁打は144試合でマークされたものだ。これも、おかしいと言えばおかしいのだ。

MLBでは、そういうことが議論されたことがある。
1961年、ベーブ・ルースの作ったシーズン本塁打記録60本を、ロジャー・マリスが抜いた時だ。
ルースは154試合制で60本を打った。マリスの時代は162試合制、当時のコミッショナー、フォード・フリックは若いころ、ルースなどの専属記者だった時期もあり、ルースを擁護して「154試合までに61本を記録しなければ記録更新とはしない」と明言した。
マリスは154試合までに61本を打つことができなかったために、本当にアスタリスク付でレコードブックに載っていたのだ。
しかしながら、このアスタリスクは1991年に消された。当時のコミッショナー、フェイ・ビンセントの判断による。こうした事例が無数にある中で、マリスのこの記録だけを特別扱いするのは不当だと判断されたのだろう。

その後、162試合制でマーク・マグワイア、バリー・ボンズが本塁打記録を更新した。
それらは後に、禁止薬物などを使用した肉体改造によって生み出された記録だということが発覚した。
それは試合数の違いなどとは異質の深刻な問題をはらんでいるように思われたが、記録は取り消されなかった。

スピットボールやエメリーボールなどが公認されていた時代の記録も、ラビットボールの時代の記録も、球場が狭かった時代の記録も、すべて公認されている。
それどころかブラックソックススキャンダルや、黒い霧事件で八百長が行われたと推定される試合の記録も抹消されてはいない。選手は球界から追放されたが、記録は歴史に刻まれたままだ。黒歴史も灰色歴史も公認されているのだ。

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つまり、野球の世界では、どんな環境、どんな条件で行われた試合の記録であっても、どんな不正が行われても、それを後から改正することは無いのだ。
その時その時のジャッジメントを尊重し、リーグや機構、連盟の判断を尊重しているのだ。
(そういう意味では、チャレンジは、いったん下された判断を、直後とはいえ後から覆すという意味で、歴史的な制度だと言えるが)。

野球の記録は、統計学のように厳密なものではない。条件も、環境も、ルールさえ違う中で記録された数字を同列に並べている。
いい加減と言えば、本当にいい加減だ。
しかし、だからこそ、それらは本当に尊い。なぜなら、当時の判断をそのまま尊重した記録は、積み上げてきた「歴史」そのものだからだ。

建て増しに次ぐ建て増しで、変な格好になった建物のように不細工で、理不尽でさえあるが、単なる数字の羅列とは思えないほどに「愛着」がわくものなのだ。

「野球の記録」はいい加減なものだ。しかし、だからと言って、これから積み上がる記録を恣意的に、いい加減にしてよいということではない。
おかしなことをした記録は、訂正されることなくそのまま永久に残っていくのだから、当事者は、その時にできる最善策を取らなければならない。
最も公平で、最も理にかなった判断をしなければならないのである。