<柴田の問題意識>

なんとなく社会人になった方々へ。自分がやりたい仕事が何かもわからない中で就活し、今の会社で働いているヒトも少なくないと思います。今回登場する広江さんもその一人でした。その後、一念発起して美容の世界に飛び込み、今は表参道でオシャレなサロンの経営者に。今回は、迷いのある社会人5年生くらいまでの方に特に読んでいただきたいです。


広江一也(ひろえ・かずや)●ヘアサロン「NORA」オーナー

1974年、奈良県生まれ。御所実業高校卒業後、大手建設会社を経て、著名ヘアサロン「ACQUA」にて10年勤務。そのうち後半の5年ほど店長を務める。その後、独立して「NORA」を設立。体力が落ちると気持ちも落ちると考え、週2回はパーソナルトレーナーをつけてトレーニングをしている。2児の父親。

>> ヘアサロンNORAのウェブサイト

柴田励司(しばた・れいじ)●インディゴ・ブルー代表取締役社長

1962年、東京都生まれ。85年上智大学文学部卒業後、京王プラザホテル入社。在蘭日本大使館、京王プラザホテル人事部を経て、世界最大の人事コンサルティング会社の日本法人である現マーサージャパン入社。2000年日本法人社長就任。その後、キャドセンター社長、デジタルハリウッド社長、カルチュア・コンビニエンス・クラブ代表取締役COOなどを歴任して現職。

>>Indigo Blueのウェブサイト


キムタクのドラマで建築にあこがれた

 ――社会人としてのスタートがゼネコン。その後、美容業界への転身というのはあまり聞いたことがありません。広江さんは、まずは普通にサロンの店員から始めて、それから今のNORAというサロンを立ち上げたんですね。

はい。ACQUAという美容室で10年務め、うち5年は店長をしていました。今のサロン「NORA」は今年の4月27日で丸5年になりました。

――ACQUAにいる頃から自分の店を持ちたいという気持ちがあったのですか。

そうですね。我が家は、父が運送業、母が大阪の新地でクラブ経営という具合に、両親ともが商売をやっていたので、いつかは自分も商売ができればと思っていました。

母のクラブにはいつもたくさんの人が出入りをしていて、当時その店でよく夕食を食べたりしていたのですが、“社会人とは”などお客さん達からいろいろ聞かせてもらい、帰りにはタクシー代をくれたりもして、「こんな世界もあるんだなぁ」と羽振りのいいみなさんを見て憧れていました。大人ってこうなんだなぁと。

――それは、間違った認識が伝わりましたね(笑)。

はい(笑)。それで高校卒業の時期がやってきた。就職や進学をどうするのかとなったときに、お客さんの紹介でゼネコンにいわゆるコネ入社をさせてもらいました。

――そのときにはまだ自分でなにかをやろうという気持ちはなかった?

まったくなかったですね。ただし、祖父が仏像を彫る仕事をしていたので、

――あ、なるほど。タダものじゃない身内が多い(笑)。

はい、その影響でなにかクリエイティブなことをしたいという気持ちはありましたね。当時の自分は建設業というのはクリエイティブな仕事ができる職場だと思っていて。今でも覚えているのですが、そのころ木村拓哉の出演していたドラマで建築をテーマにしたものがあったんです。それを見て建設業に入れば自分もかっこいい建築デザインができるものと思っていた。ところが……、実際は想像と全然違う。しかも営業でした。

――ありがちな話だ……(笑)。

 手に職を求めて右往左往

はじめの半年間は現場にでて地盤改良をしていました。ポンプ室に入って、ひたすら繰り返しポンプのボタンを押す毎日。夜は新地に飲みに連れていかれ、毎晩一気飲み要員。いつまでたっても木村拓哉みたいな華やかな仕事はさせてもらえない。しばらく我慢をしていましたが、さすがにだんだんと気がついてきます。資格がないと建築設計はできないのだということに……。

――どのくらいで気づいたの?

一年後くらいですね。

――なるほど。

それで、辞めようと思った。ちょうど現場を変わるタイミングがあったので今しかないと思いました。もう一回大学に行ってきちんと設計ができるように資格を取ってこようと思いました。

そこで、まず思い浮かんだのは大阪芸術大学。ところが芸大の入試方法には3科目以外に実技があった。「未来の階段を書きなさい」なんていうテーマがでるんです。受験生はそのために予備校に通って備えています。今からもう1浪して挑戦……?と考えたときに、そもそも建築にこだわる必要はないと気がついた。建築業へは縁あって入っただけで、特別やりたかったわけではないと。祖父に倣って、何か他の職業で手に職がつけられるクリエイティブな仕事はないかと考え始めたんです。

そこで、かつてバンドをやっていたことがあったので、まず浮かんだのがファッションでした。安易ですね。ところが、大阪モード学園の願書を取り寄せると願書が締め切っている。だから、次はパティシエになろうと思ったんです。

――ん、ちょっとわからなくなってきました(笑)。

そうですよね(笑)。ファッション、パティシエに行きつく流れを説明しますね。

これまで工事現場で男性社会の中で埃にまみれて仕事をしていたので、キレイな職場に行きたかったんです。安易ですが今度は女性が多い職場にしたかった。加えて、クリエイティブなもののほかに海外にも興味があったので、パティシエならその夢も叶いそうだと思いました。そこで、望むは辻調理師専門学校! ところがこれも願書締め切りで断念……。

最終的に残ったのが美容師だったんです。こう話すと消去法ですが、当時ロカビリーのバンドをやっていてリーゼントを自分でつくったりしていたので、案外向いているんじゃないかと思いました。

――ゼネコンは、まずは羽振りのよさに惹かれ、コネで入社。その後、徐々に自分のことを考えるようになった。そこで出てきたのが、キレイなところで、女性が多くて、手に職がつけられる仕事。この流れで美容師という仕事が浮上したと。その後、美容の専門学校に入ったんですね?

はい。関西の美容学校に。現グラムール美容専門学校に2年間行きました。

――どうでしたか?

同じ学校へ通ってきているのは美容師の息子や女の子が多くてみんな器用。それに対して僕はとても不器用で、はじめは編みこみもできなかった。ちょっとやればできて、すぐにハサミも持たせてもらえると思っていたんですが、実際は毎日が国家試験の練習。つまらないなぁ、面白くないなぁと思っていました。

――辞めようとは思わなかった?

いや、さすがに自分が働いていたときのお金で通っていたから無駄にしたくないという気持ちがあったのと、この時点で他の人達に2年くらい遅れをとっているので、これ以上無駄な時間を使っていると今後に響くなぁと感じていました。職人の世界は先に入ったほうが優位ですからね。

初めての東京で、華やかな世界に衝撃を受ける

――21歳の時にACQUAに入社ということですが、ACQUAといえば既に著名店だったと思います。ある意味、地方の一介の専門学校生が、どうして有名店に入れたのか。その辺のお話を聞かせてください。

当時は美容学校で1年間、現場でインターン1年を経て、その後国家試験という制度になっていました。すると、インターンの期間に忙しいお店に務めた人は実務に忙殺されてしまい、国家試験を受けに行く時間がまったく取れない。それがその後美容師の無免許問題などとして世間を騒がせてしまったことの背景です。いつでも受かるから受けていないという状態の美容師がたくさんいて、それが普通だった頃です。

自分は、2年目のインターン期間を田舎の美容学校の一階にあったサロンですごしたんです。業界のことがまったくわからない中、どこかのお店で働くよりも勝手の分かるところでインターンをして学んでから忙しいお店にいきたいと考えていました。もちろん、自分はしっかり国家試験もクリアしています。

そこの店長さんが、「どうせやるなら東京でやったほうがいいよ」と言ってくれたんです。その紹介先がACQUAだった。実は、そのときすでに芦屋のサロンで働くことが決まっていて、自分はそこで働くんだなって思っていました。美容師ってそういうもんなんだと。街の美容院でおばちゃんの白髪を染めたり、パーマをあてるのが仕事だと。

しかし、そこから東京のACQUAを見学にいったら、もう世界が違う。芸能人はいるし、美容師はおしゃれだし。

――ああ、キムタクの世界が思い起こされてきた。

まさに! 髪を切るだけではなく、ヘアメイクの仕事もするし、地方の美容室へいって講習を開いたりもするし、もう別世界でした。さきほどパティシエを思い浮かべた理由として、海外に関心があったとお話しましたが、こんな別世界が東京のヘアサロンにあるなら海外へいく必要なんてないと感じました。それまではニューヨークとかロンドンとかおしゃれな外国にいかないと得られないと思っていた世界がそこにあったんです。

――それまで東京にきたことは?

一回もなかった。名古屋から先にいったことがなかったんです。

――それは驚きますね。もう、すぐにここで働きたい、と。

そうですね。即決です。社会人経験がすでにあったので、幸い面接には慣れていました。受けてみると実際受かる。ただそこからが甘かった。

大切な面談当日に二日酔いで大寝坊

社会人になったらもう長い休みなどとれまいと、無計画にアメリカ旅行に出かけたんです。その間にACQUAから自宅に連絡が入っていた。「君は補欠合格なんだから、すぐに来て」と。海外にいて簡単に連絡が取れるような時代ではありません。たまたま、アメリカから実家に電話をしたら家族が慌てふためいていて……。それでも、“まあ一カ月の行程でチケットも取ってしまったし”と、全日程を終えてから帰国。

そのあとのACQUAの反応は、当然ながら激怒です。「すみません!親が倒れて……」と(笑)。

――何日くらい待たせたの?

2週間くらいですね。完全にやる気がないと思われますよね。

――ACQUAにしてみると、代わりはいくらでもいるからね。

次の日、新幹線で東京へ飛んでいくも、前日深夜まで家族と続いたちょっと気の早い就職祝いの酒が響き、まさかの寝坊。東京で17時に面談の約束をしていたにも関わらず、16時に起床しました。家は奈良です。これは行っても怒られるだけ……と行くのをやめてしまおうかとさえ思ったのですが、二日酔いのぼうっと加減がうまく作用し、気がついたら新幹線に乗車していました。「また母が……」なんて電話を先方にいれたところ、ちょうどその日が土曜日だったこともあって、サロンは大繁盛の様子。「どうせ17時に来てもらってもお前の相手なんてできない。忙しいから切るぞ」と。

――運がありますね。

はい。そんなこんなで到着は8時。さすがにサロンも空いてきています。そこにちょうど居合わせたのがACQUAの社長。社長は幸いここまでの事情はわかっていません。店長はまだバタバタしていたので、自然な流れで、社長が面談をしてくれることになりました。

――これまたツイてた。

そう。面接になれば強い。得意の口八丁です。1年しか経験していないのに、「建設業界でも働いていて」なんていうことをしきりにアピールすると、社長から店長へ「おい、こいついいじゃん!」の一言。店長も何も言えずに、採用となりました。

――危機一髪だ(笑)。

ほんとになんとか。その後は自分で言うのもなんですが、真面目にコツコツと働いたので、この時のことも大目にみてくれています。

――はまると真面目にやるタイプなんですね。

そうですね。ここまでコネとかが多かったので、社会とか仕事に関してもよくわかってなくって、なんとなくやっていればなんとかできちゃう、そういうもんなんだと思っていたんです。けれど、実際働いてみると全然できない。

ACQUAっていったら全国から超一流の人ばかりがきていて、モチベーションも自分と全然違った。だからそういう中で揉まれながらやっていて、自分も一流の仲間と肩を並べえてやっていきたいと感じて、その頃から考え方が変わっていったんだと思います。

(後編に続く)