1980〜90年代、日本のゲームは世界一だった。その時代のゲーム開発者たちの奮闘をまとめたマンガ『若ゲのいたり』(KADOKAWA)が話題だ。筆者は自身もゲーム開発者だった田中圭一氏。ベストセラー『うつヌケ』の次に挑んだテーマは、なぜゲームだったのか。田中氏に聞いた――。(前編、全2回)/聞き手・構成=的場容子
マンガ家の田中圭一さん(撮影=プレジデントオンライン編集部)

■アニメやマンガのオタク層が、80年代にゲームへ流れてきた

――新刊『若ゲのいたり』(KADOKAWA)は、『ファイナルファンタジー』『龍が如く』『ぷよぷよ』など人気ゲームで時代を築いたレジェンドたちの制作秘話を聞くインタビューマンガですね。なぜこのテーマを選んだのですか。

編集者と相談しているうちに企画が固まったのですが、その過程でほかの人にはできない企画だと思いました。僕はインタビューマンガが得意で、これまでにも『ペンと箸』と『うつヌケ』というマンガを出しています。得意だった理由がふたつあって、ひとつは10年間サラリーマンとして営業をやっていたので、人と会って話を聞き出すのが好きだったんですね。そのうえ、僕は5年間ゲームクリエイターをやっていたので、制作の様子がわかるんです。

――1980〜90年代、日本のゲームは質でも量でも世界のトップでした。なぜ日本は世界一になれたのでしょうか。

70年代の後半に『スペースインベーダー』(1978)が大流行したあたりから、テレビゲームをどの国よりも真剣にやってきたのが日本でした。その土壌を作ったのは70年代のオタクカルチャーだと思います。70年代にアニメやマンガに夢中になるオタク層が増えて、そこからどんどん作り手が生まれました。それがゲームに流れてきた。世界一を目指そうとしていたわけではなく、結果的に世界一の選手層ができていたのだと思います。

■「自分たちが欲しいものがやってきた」という感じがあった

――ゲームに夢中になった層がそのまま熱を持ってクリエイターに成長していったのですね。

僕は1962年生まれですが、ちょうど僕らの世代だと、高校生の頃にアップル2やPC98、FM7が出てきて、高校生でもコンピューターを触る人がそこそこいました。そしてマンガやアニメも大きな変革期を迎えました。

象徴的なのは、マンガでは大友克洋さんや高橋留美子さん、アニメでは『宇宙戦艦ヤマト』や『機動戦士ガンダム』でしょう。子供向けだけではなく、大人でも夢中になれる作品が出てきた。つまり、「自分たちが欲しいものがやってきた」という感じが70年代後半から80年代前半にあったんですよね。

そこで開花したオタクの人たちには、単なる受け手ではなく、作り手に回りたい人も多かった。それで一気にゲームクリエイターも増えたし、マンガ家もアニメーターも増えたという時代背景がありますね。

■ネット対応が遅れて、日本のゲームは取り残された

――その後、2000年を超える頃から日本のゲームは世界一ではなくなってしまいます。なにが起きたのでしょうか。

アメリカがゲームに本格的に力を入れ始めたのはXbox(2001)あたりからでしょう。ハリウッド映画と同じような方法論で、ヒトとカネをふんだんに使うようになりました。さらに韓国でパソコンを使ったネットワークゲームが流行しはじめていたのですが、日本はネットに対応しませんでした。資本力とネット対応という2点で後れを取るようになり、日本のゲームは取り残されてしまいました。

――日本のゲームが世界一だった当時のレジェンドたちに話を聞いて、どんな印象を持ちましたか。

80年代や90年代はまだまだゲーム業界は若かったので、セオリーやルールはなにも定まっていません。まさに未開のジャングルをナタで開拓していたような時代です。その頃って、どんなジャンルでも一番面白いですよね。

もう形ができあがっていて、「こうするのが正しいんだ」「違う作り方するとクソゲーになっちゃうからダメだよ」ってガチガチに固められるんじゃなくて、色んな試行錯誤があったり、「ゲームってこんなことができるんだ、じゃあ俺はこういうものを持ち込むぜ」とみんなが手を替え品を替え攻めていた時代は、僕も取材のしがいがあるし、実際面白いものがたくさん出てきていました。

マンガ家の田中圭一さん(撮影=プレジデントオンライン編集部)

■すごく活気のあるルネサンスのような時代だった

そしてドット絵の時代から、空間が描画できるポリゴンの登場という技術革新があって、そこで初めて、ゲームはスクロールだけのパズルやアクションものから、『ファイナルファンタジー』や『バイオハザード』のように、空間に入り込んで何かを疑似体験することが可能になりました。これは娯楽における大きな革命でしたよね。

だからこそ作り手側も、「あれができるならこれもできる」「こんなジャンルはなかったよね」と次々と革命的な作品を投入してきた。すごく活気のあるルネサンスのような時代だったとあらためて思いました。

■社内の猛反対を受けながら『龍が如く』を出せた背景

――取材を続けるなかで、特に印象的だったレジェンドのお話を聞かせてください。

僕は個人的なものも含めて、第2話で取り上げた『アクアノートの休日』を手掛けた飯田和敏さんと、その「戦友」である『Dの食卓』で名高い故・飯野賢治さんですね。インタビューするまでは、このおふたりにここまで強い結びつきがあるとは知らなかった。2013年に飯野さんが亡くなったとき、彼が残した企画書を引き継いで飯田さんたちがとあるゲームを形にし、「それこそが俺たちの葬儀だ」と飯野さんを送ってあげた。この心意気には熱くこみあげるものがありました。

――飯田さんの「今の異端が未来のスタンダードになる」という言葉も、ゲーム業界はもちろん、どんな仕事をするにあたってもかみしめたいフレーズです。

龍が如く』を作ったセガの名越稔洋さんが、社内の猛反対を受けながらも「任侠ゲーム」という新しいジャンルを切り開いたエピソードも強烈でした。「暴力表現、裏社会ものはダメ」「海外には売れない」「女性と子供が遊べない」といわれても名越さんは折れませんでした。まさにシリーズの主人公・桐生一馬のように熱く、企画を通すべく燃えていた。『龍が如く』にはそんな名越さんのパーソナリティーが宿っていると思います。

■当時のゲーム業界では仕事で自己実現ができた

――80〜90年代のゲーム業界には、「ゲーム作家」という言葉があったように思いますが、いまは聞かれません。クリエイターの熱量が減っているのでしょうか。

クリエイターの問題よりも受け手の問題ではないでしょうか。昔はいいゲームクリエイターやマンガ家を見つけると、その人のほかの作品を探していました。ところが今は作品を読んで「どんな人が作ってるんだ?」と考える間もなく、違うものがどんどん出てくる。だからおのずとゲーム作家にスポットが当たりません。僕の持論ですけど、コンテンツが多すぎて、作り手に興味を持つ暇がなくなっている気がします。

――そうすると、かつてのように日本のゲームクリエイターが世界を席巻することは考えづらいでしょうか。

レジェンドたちに話を聞いていると、当時のゲーム業界では仕事で自己実現ができたのだな、と感じます。給料の心配をせず、仕事に没頭していても、なにも問題なかったのです。ところが、今の若い人は違います。まず、新卒で就職しても初任給がめちゃくちゃ安い。そして当然のように給料も上がらない。

■新卒の正社員でも「年収200万円以下」がざらにいる

私は大学の教員もしているのですが、新卒の正社員でも年収200万円を切る子がざらにいます。そのうち何人かは「だったらバイトのほうが実入りがいいな」と、すでに会社を辞めています。

田中圭一『若ゲのいたり ゲームクリエイターの青春』(KADOKAWA)

原因は日本が経済成長していないからでしょう。かつての日本では、労働環境が厳しくてもいつか報われるとみんなが信じることができました。しかし今の若い人たちは経済成長を知りません。だから仕事に対して強い嫌悪感を持っています。ブラック企業に入って搾取されるとか、嫌な上司や最悪の人間関係の中で精神を病んでしまうということを、真っ先に心配するのです。

私は若い人たちに、僕らが働いてきた経験から「いや、仕事って面白いよ!」とあらためて伝えたい。少なくともその事実を訴えていかないと、みんな働くのがつらくなるばかりです。

だから『若ゲのいたり』では、頑張っていい仕事をして、面白い仕事にありついて、ちゃんと成果をおさめた人たちを描いています。「挫折して終わりました」という話は描いていません。本当に見せたいのは「真剣に仕事をしている人たちが、紆余曲折の果てにつかんだもの」なんです。

――仕事がちゃんと自己実現の場になり得るんだということを、若い人に言いたいということですね。

そこを訴えていかないと、ほんとに日本がやばいことになると思っています。(後編に続く)

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田中 圭一(たなか・けいいち)
マンガ家
1962年生まれ。近畿大学法学部卒業。大学在学中の83年、小池一夫劇画村塾(神戸校教室)に第一期生として入学。翌84年、『ミスターカワード』(『コミック劇画村塾』掲載)でデビュー。86年開始の『ドクター秩父山』(『コミック劇画村塾』ほかで連載)がアニメ化されるなどの人気を得る。大学卒業後はおもちゃ会社に就職。パロディを主に題材とした同人誌も創作。著書に『田中圭一の「ペンと箸」』(小学館)、『うつヌケ うつトンネルを抜けた人たち』(KADOKAWA)などがある。

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(マンガ家 田中 圭一 聞き手・構成=的場容子 撮影=プレジデントオンライン編集部)