【名良橋晃の転機】日本代表の「転機」の夜

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1997年11月、アジア第3代表決定戦でイランに勝利し、日本は初めてワールドカップへの切符を手にした。だがそこまでは平坦な道ではなかった。予選では滑り出し順調に見えたが途中で失速、一時は他力本願になる状況にも陥った。そしてそこから盛り返し、ついに悲願を達成した。

名良橋晃は、日本が初出場したフランスワールドカップで右サイドの攻守を担った。名良橋にとって「転機」は何だったか。名良橋は本大会のことではなく、予選途中のある夜について語った。

いつも笑顔で朗らかな名良橋が、その日のことを話すときは今でも沈痛な顔になる。だがそこまでの思い経験だったからこそ、その後につながったのだろう。あのときがなければ、日本のワールドカップ出場はなかったのかもしれない。

【取材:日本蹴球合同会社・森雅史/写真:浦正弘】


あの夜がなかったらワールドカップ出場というのはなかった



自分にとっての転機、ワールドカップに向けてチームの転機と言うと、1997年10月4日、加茂周監督が解任され岡田武史監督が就任したときの、カザフスタンでの夜ですね。その後、ワールドカップ出場を決めた「ジョホールバルの歓喜」もあったんですけど、僕はやっぱり監督解任のほうに思いが強いです。

(1998年ワールドカップアジア最終予選、日本は4戦を終えて3位と苦戦を強いられる。すると4戦目の試合後、日本サッカー協会は加茂周監督を更迭し、岡田武史コーチの監督昇格を決定した)

そこはワールドカップに出場するという意味での転機だったのかなと。あの夜があったからこそワールドカップに出られたんじゃないかなっていうぐらい、またチームとして一つになるきっかけでした。

カザフスタンでの試合後、ミーティングルームに選手が集められたんです。僕は監督を代えることはないだろうと思ってたんですよ。まだ予選の最中でもあったんで。確かに韓国に負けてカザフスタンに引き分けてということで雰囲気的にはよくなかったかもしれないんですけど、カザフスタン戦の後にはすぐアウェイのウズベキスタン戦があったし。

だから、「ここでもう一回気を引き締めよう」というミーティングなのかなって思ったんです。けど、ミーティングルームに入ったら長沼健会長(故人)がいて、加茂さんがいて岡田さんがいて、「これはちょっと違うな」って感じて。そこで加茂さんが解任になったって聞かされて。

その場に加茂さんもいたんですよ。僕は、本当に加茂さんに育ててもらったっていう意識があったんで、すごく責任を感じてました。それでミーティングが終わってみんな一度自分の部屋に帰るんです。あのときはみんなひとり部屋だったと思うんですけど、でもそのあと、自発的にみんなもう一度ミーティングルームに集まりましたね。何かみんながいても立ってもいられなくて、ひとり、またひとりと集まってきて。

みんなのいろんな思いがあったと思います。だからミーティングルームにみんなが足を運んだのかなって。加茂さんのチームはまとまってましたからね。年齢のバランスもすごくよかったし。

ドーハ組(1993年に「ドーハの悲劇」を経験した三浦知良、中山雅史)、バルセロナ組(1992年五輪予選に出場した名良橋、小村徳男、相馬直樹、名波浩)、アトランタ組(1996年五輪に出場した川口能活、中田英寿、城彰二)がいてバランスが取れてました。雰囲気作りについてはノブ(小島伸幸)さんもいましたし、ゴン(中山)さん、アキ(秋田豊)さん、井原(正巳)さんがいて、よくまとまってました。

言いたいことは言えたし、年下もグイグイ来てましたし。(川口)能活とかヒデ(中田英寿)も、(城)彰二もいて、みんながギラギラしてるところを、うまくノブさんとかゴンさんとかがまとめてくれて。それから、監督と選手の間をうまくまとめていたのが岡田さんで、本当にいいファミリーになったと感じてて。

だから加茂さんが解任されて、僕としても責任は重々感じてました。加茂さんをワールドカップに出したいという気持ちが僕の中にあったんで。加茂さんが僕のことを相当評価してくれたというのは聞いてましたし。みんなも責任を感じてたと思います。

そのミーティングルームに集まってきた中で、最終的にまとめ役になったのがノブさんでしたね。ノブさんがみんなをうまくまとめてくれてました。

代表合宿中は飲めないんですけど、僕の記憶ではノブさんが協会と掛け合って、そこをうまくやってくれて、お酒を持ってきてくれたと思います。それでみんなが話しやすい雰囲気作りをしてくれたというか。僕は酒が飲めなかったんで、ウーロン茶とか炭酸飲料とか、そこでみなさんの話を聞いてました。

話は早朝まで続きましたね。誰ひとり部屋に帰るっていうのはいなかったですね。ひとりでいたくなかったんですよ。そういう気持ちでした。ひとりになりたくないというか、ひとりでいても思い悩んじゃうって。それだったらみんなと一緒にいて話をしたほうがいいのかなって。

ノブさんはいろんな人に気を配りながらバランスを取って、話をうまくみんなにさせて。みんなはざっくばらんに、サッカーだけじゃなくていろんな話をしていく中で、歳も関係なくなって垣根を越えたというか。

あのときのノブさんの存在は大でした。GKとしてのバランスもそうですけど。チームとしてのまとめ役というところでも、ノブさんの存在というのがあのチームでは絶大でした。2002年日韓ワールドカップのときでいうゴンさんとかアキさんとか、毎回、ワールドカップのときってそういう雰囲気を作ってくれる人の枠ってあるじゃないですか。その一番最初のスタートはノブさんなのかなって思ってます。

あの夜がなかったら、もしかしたらワールドカップ出場というのはなかったかもしれないと思います。あの夜があったからこそ、またさらにひとつになったという場でした。「岡田さんが監督になったんだから、岡田さんを中心にまとまらなきゃいけないよね」って、そういうのが最終的なみんなの答えだったんです。そこからまた一つの輪になったんですよ。

ホーム・UAE戦の後に感じた恐怖と責任の重さ



でも、そのあとも苦しいときが続きました。岡田監督の初戦となったアウェイのウズベキスタンでは終了間際まで負けていて、最後の最後に相手GKのミスで追いついた。でも結果論ですけど、あのときの1点がなかったらワールドカップ出場はなかったんですよね。

それからもずっと他力本願というか、自分たちが勝ってもUAEの結果次第で敗退が決まるというギリギリの状況が続いて。肉体的にも精神的にもすごく追い詰められた状況の中でも、やはりあの夜というのが、みんなの中では少なからず影響を与えたと思います。ああやってまとまったから厳しい山場を乗り越えられたんだろうなって。

そんな中で勝たなければいけないホームのUAE戦は、先制したけど追いつかれて同点で終わったんですけど、その試合後にいろんなことが起きました。たくさんの人がゲートに押しかけて卵なんかが投げつけられて、バスがスタジアムの外に出られない。あれは怖かったですね。正直、「帰られるのかな?」と思いました。みんなで一度ロッカールームに戻って、6人ずつぐらいに分かれて小さな車に乗ってこっそり帰ったんですけど。

逆転負けしたホームの韓国戦のときからいろいろ続いたから、みなさんの気持ちがUAE戦の後に爆発したと思うんです。韓国戦の先制ゴールになった、山口(素弘)さんのシュート(ペナルティエリアの外で相手選手からボールを奪うと、そのままドリブルでひとりかわしてペナルティエリアに進入。冷静にGKのポジションを見極め、右足の甲に乗せるようにしてループシュートを放ち、芸術的なゴールを決めた)って最高でしたからね。あの山口さんのゴールは語り継がれると思いますよ。

韓国戦に僕は後半から出たんですけど、ピッチ上で「すげぇなぁ」って感心しましたからね。でも「すげぇ」と思ったんですけど、ゴールが決まったのって67分っていう後半の早い時間だったじゃないですか。だから「喜ぶにはまだちょっと早いな」って思って、みんな輪になってたんですけど、僕とヒデだけは我に返ってすぐ自分のポジションに戻って戦闘態勢に入ってたんですよ。そうしたんですけど、結局最後は逆転されてしまって。そのときから、みなさんには気持ちのモヤモヤが溜まっていったんでしょう。

だからホームのUAE戦の後、怒号が飛び交うような大変なことになってましたけど、観客のみなさんも「ワールドカップに出てほしい」という、そういう気持ちがあったからあんな行動を起こしたんだと思いました。そんなみなさんの気持ちというのも重々感じて。みなさんも生半可な気持ちじゃないんだなって。だってみなさん、応援するしかないじゃないですか。僕も今はそうです。日本代表を応援するしかない。だから余計にわかるようになりました。

そして「日本代表というのは、もう自分だけの人生じゃないんだ」って、あのとき思いましたね。「やっぱり国を背負ってるんだ。みなさんの人生も背負っていかなきゃいけないんだ」って。だからこそワールドカップには絶対出なきゃいけないって、すごく思って。

すると、その後UAEがウズベキスタンと引き分けて、日本にまた自力突破の芽が出てきたんです。そのあとはアウェイの韓国戦に勝ったり、ホームのカザフスタン戦では5-1で勝ったりと、いろんなことがいいほうに向かってグループで2位になって、プレーオフに進めましたし。

そのプレーオフも開催地が中東ではなくマレーシアのジョホールバルになりましたし、1-2と逆転された後に同点に追いついて、ゴールデンゴール(Vゴール、延長戦では先に1点を挙げたほうが勝利となる当時のルール)で勝つことができて、ワールドカップに出ることができましたからね。

どの試合も苦しくて、ジョホールバルでも苦しい場面もありました。でも、あのカザフスタンの夜があったからこそ、全部を乗り越えられたのかなって、自分の中での思いがあります。あの夜はみんながいても立ってもいられなくてミーティングルームに足を運びましたし、そこでまた新たに一つの力になったのかなって思います。あれが転機でしたね。

ちょっと話が脱線しますけど、ホームのUAE戦のとき、僕はドーピング検査の対象選手に選ばれてたんです。ところが興奮してるから、尿が全然でない。試合終了後、尿が出るまで2時間ぐらいかかりました。

にっちもさっちもいかなかったとき、外国人の係員が帰りたさそうな顔で「ちょっと散歩してきていいぞ」って言ってきたので、誰もいなくなったスタジアムの、暗いトラックを歩いたのを憶えてます。急いでスタジアムを離れたかったのに、ポツンとひとりで歩いてました。それでやっと出たんですよ。これでやっと帰られるとホッとしました。ところが出たら今度はどんどん出るんですよね――。(了)


名良橋晃(ならはし・あきら)

1971年11月26日、千葉県生まれ。高校を卒業するとフジタ(現・湘南ベルマーレ)に加入し、攻撃的サイドバックとして活躍し、1994年には日本代表にデビューする。1997年、鹿島アントラーズに移籍し、その後日本代表に復帰した。