スポーツと芸術が好きだった両親が習わせてくれたのが、新体操だったという【写真:編集部】

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熱戦の世界新体操、北京五輪代表「フェアリージャパン」坪井保菜美さんに聞く

 現在、熱戦が繰り広げられている新体操の世界選手権(ブルガリア)。15、16日には団体の総合決勝、種目別決勝が行われ、日本代表「フェアリージャパン」が世界に挑む。東京五輪を2年後に控えた今大会の世界一決戦は、注目ポイントがどこにあるのか。「THE ANSWER」では北京五輪団体代表の坪井保菜美さんに話を聞いた。

 華やかにフロアを舞い、5つの手具を使いながら、アクロバティックな演技を見せる新体操。しかし、実際にはどんな競技なのか、馴染みが薄い部分もある。インタビュー前編では現役生活を振り返ってもらいながら、サバイバル形式で年350日をともに過ごす「フェアリージャパン」の過酷な生活の裏側について明かしてくれた。

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 5歳で新体操を始めた坪井さん。スポーツと芸術が好きだった両親が習わせてくれたのが、新体操だったという。

「家の中を走り回るような元気で活発な子で、両親にとっては『そこで走らせておこう』程度で通わせてくれたのがきっかけ。始めてみたら1年くらいで選手コースに声をかけてもらい、小1で初めて地元の岐阜県の大会に出たんです。この試合で一番記憶に残っているのは、いろんな人に見られる緊張、不安もありながら、他の子たちが『頑張ってね』と励ましてくれたり、終わった後に拍手をもらえたことがうれしくて、もっと多くの人に見てもらいたいと思うようになりました」

 幼い頃から感情表現をするのは苦手だったというが、音楽に合わせて踊り、自分を表現できる新体操に惹かれていった。

「個人のカラーを出せるし、踊りが好きと感じていました。素敵な衣装を着たり、普段しないメイクもできます。ゴールを決めれば1点が入るという競技ではない分、手具を使ってそれぞれに異なる曲を演じることが楽しかったです。大きな大会に出たいとか、五輪に出たいとか思ったことは実はなく、当時習っていたコーチのように品のある先生に将来なりたいと思っていました。小さいころから周りより背が大きかったことは新体操に生きたと思います」

 後に170センチまで成長する抜群のスタイルを生かして実力を磨き、中1で個人戦全国大会優勝。強化指定選手になった。順調に有力選手としての階段を上がっていったが、高1で運命を変える1本の電話が鳴った。日本体操協会の山崎浩子氏(現女子強化本部長)からだった。当時、第1期生として募集をかけていたフェアリージャパン選考受験の打診を受けた。

 有力選手を全国から集め、共同生活をさせながら団体戦で08年北京五輪を目指す日本新体操初の試みに、声をかけられたのだ。

1日8〜9時間練習の12人サバイバル生活、北京五輪に残ったのは3人だけ

 結果は見事合格。通信制高校に転校して親元を離れ、千葉に移り、高2の4月から難関を突破した12人との共同生活が始まった。

「とにかく大変でした。みんな同じマンションに住んで、3LDKの部屋に3人1組。朝7時に起きて、みんなでママチャリを漕いで体育館に向かう。朝9時から4時間練習して、昼休みを挟んで午後3時から7、8時まで1日8〜9時間は練習。練習が終わってくたくたの状態で家に帰っても、自炊して、お風呂に入る順番を決めて、コーチに提出する反省ノートを書く。なんとか12時までに寝る。休みは週に1日。実家に帰れるのは年3、4回くらい。メンバーとは年350日くらいは一緒にいたんじゃないかと思います(笑)」

 ただ、生活をするだけでも過酷な環境。初対面のメンバーとの共同生活に気苦労も多かったが、それ以上に練習は厳しいものだった。団体を未経験だったのは、自身だけ。残りの11人は経験者だった。

「『イチ』と掛け声で言われても、『イ』で出すのか『チ』で出すのかだけでも狂ってくる。頭がそこまで回らない。『今までの(手具の)投げ方は忘れなさい。統一したやり方でやるから』と言われ、それではコントロールすることが難しい。投げるだけの練習を何時間も何千回と永遠続くこともありました。全員が10回合うまで終わらないとか。本当に辛い時期でした。コーチは誰か一人でもずれていれば、選手同士で互いに指摘しなさいと言うのですが、自分がそうなるかもしれないと思うと、みんな我慢をして言えない状態でした」

 何より過酷だったのは、五輪まで続けられるか分からないサバイバルという点だった。12人で始まったメンバーも19歳で迎える08年北京五輪まで残ったのは3人だけ。絶えず、入れ替えが繰り返されていった。

「仲間同士を競わせる目的もありますし、いい選手がいたら推薦でコーチが入れるんです。『あなたたちより良い子が入ってくるから』とプレッシャーをかけ、新しい選手が随時入ってくる。そんな中で体重管理はすべて任され、『食べたいなら食べていい。その分、動きなさい』というスタンスだったのですが、自己管理ができなかったり、練習がきついという理由でやめていってしまう選手もいました」

 普通の高校生らしい生活もできない。「『バイトしてみたいよね』とか、『今の体でビキニを着たら(筋肉で)仮面ライダーみたいだよね』とか、そんなことをよく言っていました(笑)。アイスを食べたりとか、自炊で腕が上がって休みにお菓子作ったりとか、そんなことが楽しみでした」と振り返る。ホームシックになり、毎日のように母に電話をかけた時期もあったという。

 そんな汗と涙で濡れた2年以上の日々を乗り越え、最高の瞬間が待っていた。大目標だった北京五輪の代表メンバー6人選出だ。

選出の6人と落選の3人…分かれた明暗を乗り越え、辿り着いた北京五輪

「2か月前の練習で集合がかかり、『今からメンバーを発表します』と。当時のメンバーは9人いたんですが、互いに『この子はいける』『もしかしたら』という感触はそれぞれ分かっていたんじゃないかと思います。実際に呼ばれた時はすごくうれしくて、今まで支えてくれた家族や、育ててくれたコーチにオリンピックで踊る姿を魅せる事が出来る。行ける6人と行けない3人。泣き崩れる3人を見るとすごく複雑な気持ちになりました。この3人のためにも頑張らないと、と思いました。コーチに『あの姿を焼き付けておきなさいよ』と言われたことがとても印象に残っています」

 仲間の無念を背負い、挑んだ北京五輪は10位となった。「一人でここまで来られたわけじゃない。いつも支えてくれた家族の感謝だったり、一緒になって生活をしてくれたコーチ、そしてメンバーと悔し涙じゃなくうれし涙を流したいと思い、ありがとうという思いを持って挑みました」。今なお、フェアリージャパンの共同生活のスタイルは取られている。

新体操は練習の時間が多ければ多いほど強い。練習量がものを言う競技だと絶対に思います。昔は、練習は苦手だったけど、やればやった分だけ自信になる瞬間を実感して『努力ってこういうことか』と思ってからは五輪に出たければ、やらなければいけないという気持ちが強くなりました。団体の魅力は心強いということ。ライバルだけど、フロアに立っている5人はすごく絆の深い仲間でもある。声をかけ合い、助け合い、慰め合い、外にはわからない5人だけの時間という感じは個人にはない心強さがあります」

 新体操を引退し、現在はTBS系「KUNOICHI」など身体能力を生かしてテレビ番組に出演するなど、タレント業としても活躍。ヨガの指導も行い、活動は多岐にわたっている。現在29歳。自身を育ててくれた新体操という競技から学んだことは何だったのか。

「努力の大事さを知れたことです。自分に託された大技をもし習得できたらレギュラーを獲れると思うと、その技だけは絶対にやりたいという気持ちが持てました。自分は自信が持てないタイプでしたが、繰り返していくうちにできた時は感動するし、試合で成功した時には自信にもなる。もう一つは自分を客観視しないと周りを見られないとコーチに言われ、団体は自分が焦ると足を引っ張るし、演技も乱れる。もう一人の自分を隣に置き、その自分と相談しながら冷静に、という作業は今も生きています」

 そして、今後についても「まずは多くの人に知ってほしい。芸術スポーツである以上、個性を出せる選手がどんどん出てきて成長してくれたら」と語った坪井さん。「フェアリージャパン」と新体操界の明るい未来を、今なお願っている。

(15日掲載予定の後編では「フェアリージャパンが戦う世界新体操の見所」を語る)(THE ANSWER編集部・神原 英彰 / Hideaki Kanbara)