「中国大返し」は速さだけではなかった 本能寺の変直後、秀吉が仕掛けた総合作戦とは
歴史研究家の市橋章男氏が、YouTubeチャンネル「なるほど! 歴史ミステリー」にて、「【中国大返しは速さだけではなかった】秀吉最大の転機!本能寺直後に秀吉が仕掛けた軍事・外交・心理作戦 信長「是非に及ばず」の真相 豊臣兄弟歴史解説28」と題した動画を公開した。動画では、本能寺の変直後の豊臣秀吉による「中国大返し」の知られざる実態や、徳川家康の「伊賀越え」に潜む時間の矛盾など、通説では説明できない数々の謎を史料から読み解いていく。
市橋氏はまず、本能寺の変の直後に書かれた公家の日記『言経卿記』に記された「是非に及ばず」という言葉について解説する。現代では、織田信長が明智光秀の謀反に対して「光秀だったら仕方がない」と諦めた言葉として知られているが、当時の文献における文脈を読み解くと「とんでもないことだ」という意味合いが強いと指摘。信長が光秀の裏切りを容認したとする通説をきっぱりと否定した。
続いて、秀吉の「中国大返し」を取り上げる。備中高松城からおよそ200kmの道のりをわずか数日で踏破したこの大移動は、単に移動速度が速かっただけではないと語る。道中の村人に金銭を配って食糧を確保するなど、緻密な軍事・補給・外交が組み合わさった総合作戦だったと高く評価した。
さらに、光秀の朝廷工作が時間不足で失敗に終わったことや、筒井順慶が形勢をうかがって日和見をした「洞ヶ峠」のエピソードにも触れ、当時の緊迫した状況を解説している。
一方で、市橋氏が最も不可解だと指摘するのが、徳川家康の「伊賀越え」である。『家忠日記』などの史料の記述を分析すると、家康は本能寺の変の翌日にはすでに伊賀越えを済ませていた計算になるという。およそ190kmの険しい山道をわずか数日で走破し、岡崎へ逃げ帰るのは「どう考えてもおかしい」として、その行程に強い疑問を投げかけた。
この極めて不自然なスケジュールから、市橋氏は「家康は光秀が信長を討とうとしていることを内々に知っていた」という一つの仮説を提示した。本能寺の変という日本史最大のミステリーについて、教科書では語られない事件の裏側を史料から改めて検証し、新たな視点を提示する内容となっている。
市橋氏はまず、本能寺の変の直後に書かれた公家の日記『言経卿記』に記された「是非に及ばず」という言葉について解説する。現代では、織田信長が明智光秀の謀反に対して「光秀だったら仕方がない」と諦めた言葉として知られているが、当時の文献における文脈を読み解くと「とんでもないことだ」という意味合いが強いと指摘。信長が光秀の裏切りを容認したとする通説をきっぱりと否定した。
続いて、秀吉の「中国大返し」を取り上げる。備中高松城からおよそ200kmの道のりをわずか数日で踏破したこの大移動は、単に移動速度が速かっただけではないと語る。道中の村人に金銭を配って食糧を確保するなど、緻密な軍事・補給・外交が組み合わさった総合作戦だったと高く評価した。
さらに、光秀の朝廷工作が時間不足で失敗に終わったことや、筒井順慶が形勢をうかがって日和見をした「洞ヶ峠」のエピソードにも触れ、当時の緊迫した状況を解説している。
一方で、市橋氏が最も不可解だと指摘するのが、徳川家康の「伊賀越え」である。『家忠日記』などの史料の記述を分析すると、家康は本能寺の変の翌日にはすでに伊賀越えを済ませていた計算になるという。およそ190kmの険しい山道をわずか数日で走破し、岡崎へ逃げ帰るのは「どう考えてもおかしい」として、その行程に強い疑問を投げかけた。
この極めて不自然なスケジュールから、市橋氏は「家康は光秀が信長を討とうとしていることを内々に知っていた」という一つの仮説を提示した。本能寺の変という日本史最大のミステリーについて、教科書では語られない事件の裏側を史料から改めて検証し、新たな視点を提示する内容となっている。
YouTubeの動画内容
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