「名選手名監督にあらず」。中でもサッカーはその傾向が強いスポーツだ。世間に知られている有名監督の中に、かつての名選手は多くない。
 
 他の競技と比較すれば、それは明らかになる。例えば日本のプロ野球の12球団の監督は、元有名選手ばかり。名監督か否かはさておき、説明の要らないキャラ立ちした名前がずらりと並ぶ。
 
 片やJリーグ。有名選手か否かの物差しを日本代表の代表歴にすれば、J1に9人いる日本人監督の中では森保一(広島)が一番手になる。しかし、それでも代表歴は35回止まり。さらに言えば、森保は有名選手という言葉がまるで似合わない地味な選手として通っていた。
 
 残る2人、風間八宏(川崎・代表歴19)、田坂和昭(大分・7回)も、代表選手としてのイメージは薄い。彼らも知る人ぞ知る好選手に属していた。
 
 J2の状況は、J1より幾分マシだとはいえ、それでも日本は、世界基準を大きく下回る状況にある。監督に有名人が少ない。サッカーの特性として片付けるわけにはいかない問題だ。
 
 Jリーグの監督の座に就くためには、何よりコネやツテがものをもいうとはよく聞く話。サラリーマン社会の「人事」に近いモノになっている、少なくとも、監督探しをする人たちに、元有名選手を積極的に登用しようとの意識は高くない様子だ。何より、日本サッカー界そのものに、元有名選手を監督に育てようとする機運が欠けている。
 
 確かに、監督に求められる要素と、選手に求められる要素には大きな違いがある。ライセンスを取得すれば、それで一人前の監督候補というわけではない。世の中にも、現役時代のように、さあどうぞと、歓迎する風潮はない。よって、監督志望者は、監督としての能力を、地道にアピールしていく必要がある。
 
 テレビ解説はそのいい機会になる。そこで監督としての資質をアピールできれば株は上がる。風間監督などは、そこで名を上げたクチだが、これまでにも再三述べてきたように、日本はそうした機会に恵まれていない国だ。サッカーを語る番組は極端に少ない。スポーツニュースは駆け足もいいところ。日本代表戦にしても、プレビューにはたっぷり時間を割くが、レビューは極端に短い。試合終了後、番組は慌ただしく終了する。終わってからの方が長い外国とは、サッカーに対する向き合い方が決定的に違っている。
 
 日本の評論家と外国の評論家では、どちらが評論家的かといえば、断然外国になる。日本のテレビ解説者が評論性を発揮する時間はきわめて少ない。
 
 刺激的な言動を極力避けようとする控え目な気質が、それに輪を掛ける。テレビ解説者と監督とは、大抵知り合いだ。お友達だったり、先輩だったり、お世話になった過去がある恩師だったりする。その関係を保とうとすれば、監督采配についてアーだコーだ言いにくい。「出る杭」にならないよう言葉に気を遣いながら話すので、監督采配に迫る発言も自ずと少なくなる。「私が監督ならばこうする」などと、意見する人はほとんどない。
 
 選手には注文を付けるが、監督には付けない。采配には積極的に触れようとしない。よって、監督の存在感はますます希薄になる。監督という人物に注目が集まりにくくなる。
 
 監督に、立っているだけで絵になるスター性があれば、それでも存在感が薄れることはないが、繰り返すがJリーグの監督は総じて地味だ。華を備えているのはストイコビッチのみ。「小倉勉監督(大宮)」と言われて、即座に反応できるのは、いわゆる業界人のみ。大抵の人はピンと来ない。親近感は湧いてこない。だからこそ、監督という職業の本質に迫ってやる必要がある。
 
 現役時代有名ではなかった監督は、無名のまま、監督采配を振るうことになる。無名なのに監督になれたサッカーの特殊性は、明らかにされずじまいだ。それこそがサッカーの本質であり、魅力であるにもかかわらず。
 
 有名選手は監督になりにくく、有名ではなかった監督は無名のまま。この状況が続く限り、監督への関心度は上がらない。日本は、監督という職業に憧れる絶対数という点で先進国に大きく劣っている。
 
 先進国に限らず、世界の多くの国では、ファンは監督になったつもりでモノを言う。日本にだってそうした人は少なくない。自称監督、自称評論家は存在する。居酒屋やカフェに行けば、隣で偉そうに喋っているファンに遭遇するが、外国に比べるとまだ足りていない。申し訳ないが、小耳に挟む会話のレベルも総じて高くない。何よりうるさくないのだ。
 
 この状況を変えるには、監督にスター性を備えさせる必要がある。監督を話題の人物にさせる必要がある。サッカーは選手だけでなく監督もスターにできるスポーツ。元有名選手には、解説者にとどまるのではなく、もう一度スターの座を目指して欲しいし、周囲はそれがしやすい環境を作るべきだと思う。
 
 監督が有名人にならなければ、サッカーならではの魅力は浮き彫りにならない。僕はそう思うのだ。