戦国の雄、織田信長は、部下の反乱が異様に多い武将でもあった。小説家の鈴木輝一郎さんは「若いときに怒鳴られたり殴られたりするのはOKだが、相応に地位や年齢があがるときつくなる。信長はそうした周囲の環境の変化に気づかなかった」という--。

※本稿は、鈴木輝一郎『老害の戦国史』(毎日新聞出版)の一部を再編集したものです。

清洲公園(愛知県清須市)の織田信長像(画像=Bariston/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

■歳を取ると暴力から遠ざかるものだが…

加齢で最も変化することのひとつに、「大声で怒鳴ったり、殴る蹴るなどの物理的な暴力をしたりされたりする機会がなくなる」ことがある。

読者諸氏は子供の頃に取っ組み合いの喧嘩をしたことがあるだろう。若気のいたりで酒の勢いで殴り合いをしたのはお幾つぐらいだったろうか。筆者は二十四のときに銀座で泥酔し、同僚と怒号をかわし、「表へ出ろ!」と一喝して、次の瞬間、歩道にうずくまっていたのが最後である。相手は少林寺拳法四段で、「殴りあい」ではなく「一発ダウン」だったのだが。

分別ある大人が「殴る蹴る」なんぞという物理的な暴力をふるうことは、ない。合戦が日常的にあった戦国時代も同じだ。戦国時代に相手に物理的な暴力をふるうときは、相手・敵を「制圧する(これは軍事用語で、つまり『殺す』)」のが目的だからだ。

■少年期の信長は「殴り殴られ蹴り蹴られ」

織田信長の行跡の基本史料『信長公記』によれば、織田信長の若い頃の奇行のひとつとして「城周辺の農家の子供たちといくさごっこに耽(ふけ)ったこと」があげられている。なにせ戦国時代のまっただなかである。「ごっこ」どころか、本物の合戦が日常的だった時代のこととて、信長の少年期は、「殴り殴られ蹴り蹴られ」なんて日々だったことは、容易に想像できる。

■謀反だらけの人生、成功例が本能寺の変

ちょっと話が横道にそれるが、すこしがまんしていただきたい。

織田信長が他の戦国武将と大きく異なることのひとつに、「家臣の反乱がやたら多い」ことがあげられる。本能寺の変での明智光秀ばかりが目立つが、柴田勝家や林秀貞(通勝)、佐々成政といった旧臣から、荒木村重や松永久秀といった新参にいたるまで、記録されているものだけでも無数にある。命令違反や怠業なども勘案するとさらに数え切れない。

楊斎延一『本能寺焼討之図』(1896年)(画像=ブレイズマン/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

もちろん、下剋上の戦国のこととて、家臣が反乱を起こすのは珍しくない。ただし、「家臣の反乱が表に出たときは、主君がその座を追われるとき」なので、「何度も家臣の謀反に遭う」のは珍しい。忘れてならないのは、「本能寺の変は、たまたま明智光秀が成功しただけ」だということだ。

織田信長の家臣の謀反を検証してみると、家督相続のごく初期のものを除いては、そのほとんどが「組織だった謀反というよりも、家臣個人がぎりぎりまで怨恨を我慢し、ある日突然キレる」のが特徴である。明智光秀が本能寺の変を成功させることができたのも、最小限の人員で京都を襲撃した、ごく衝動的なもので、成功させた後に大慌てで同調者を立てようとしたものの、間に合わなかったのは、よく知られるところである。

■家臣がキレる=大したことではない?

なぜ織田信長に対しては「何度も家臣が反乱を起こすことができた」のか。それは、織田信長が「謀反や命令違反があっても、許して家臣として重用する」からだ。天正5年(1577)の信長の北陸攻めの際、従軍した羽柴(豊臣)秀吉が信長に無断で戦線を離脱した。もちろん信長は激怒したが、そのわずか2カ月後、何事もなかったかのように信長は秀吉を中国・毛利攻めの主将に配置した。

では、なぜ織田信長は「家臣にしばしばキレられ」、「それでも家臣が戻ってくると重用した」のか。それは「信長自身が『家臣がキレることを大したことだと考えていない』から」だといえる。

■少年期のままのメンタリティで大人に

話を本題に戻そう。

織田信長は少年期、近隣のガキたちと「殴り殴られ蹴り蹴られ」という日々を送ってきた。

そのままのメンタリティで成人したことは、明らかである。織田信長は家臣をすぐに罵倒し、手をあげた。

岡田玉山 著・画『絵本太閤記』(1797~1802)より、甲州征伐の直後に明智光秀の言葉に激怒した織田信長が、衆人環視の中で光秀を打ち据える場面。(写真=国立国会図書館デジタルコレクションより一部加工)

明智光秀のマゲを摑(つか)んで欄干に叩きつけたエピソードはよく知られている。本能寺の変の直前、徳川家康の目の前で「手を抜きおって!」と激怒して能楽師(『梅若太夫』と名前まで判明している)を殴りまくった話は『信長公記』巻十五にも明記されている。

■馬糞まみれの餅を近習に食わせる

岡谷繁実の『名将言行録』には以下のエピソードが残されている。時期は不明だが大坂・石山本願寺一向一揆の攻略時期で、高野攻めのすこし前なので、天正5年(1577)から天正8年(1580)の間で、織田信長が合戦の前線に出た最後期である。

根来衆との対決前、織田信長が根来を通過することになった(このとき、織田は根来とは和睦も敵対もしていない)。

根来衆たちは、とりあえず信長の様子をみようということになり、根来衆の重鎮が「信長は大きなる器量の人(強大だが寛大)」と聞き、できるだけ大きな折(敬意を表するための手土産)を進ずべし」として、大きな折箱を三つほどこしらえて、信長の前に差し出した。

信長は馬に乗ったままこれをみて、「奇特(よい心がけ)な音信(いんしん)(『音信物』の略。訪問および進物の両方を指す)である」と告げて、折箱の蓋を開け、餅を笄(こうがい)(武将が携行した頭皮を搔く道具)でひとつふたつ無造作に突き刺して食べた。

その後、信長は自分の近習たちに「残りはお前らで食え」と地面に撒き散らした。餅は馬糞の上に散乱したのだが、どの信長の家臣たちも馬糞まみれの餅をありがたそうに食した。

これをみた根来衆が「位のある大将と感心せり(よほど力がある大将なのだと驚愕し、恐れた)」となった。

後年、信長が紀伊国を攻める際、根来衆に臣従をもとめたとき、かれらはいずれも信長をおそれ、早期に降伏した。

■部下も年老い偉くなっているのに

このエピソードでまず重要なのは「信長はどんな気持ちで馬糞まみれの餅を家臣に食わせたか」だ。エピソードの光景を思いうかべていただきたい。「中原の覇者が」やらせていると考えると異様であるが、「取っ組み合いの喧嘩で勝ったガキ」と考えると、ごく自然な光景ではある。

もっと重要なことは、「信長の家臣たちはどんな気持ちで馬糞まみれの餅をありがたがって食ったか」にある。

忘れてはならないのは、「織田信長は、合戦実務を嫡男の織田信忠にまかせ、自身は形式上、隠居の体裁をととのえた」ほどの老境だったことだ。天正3年(1575)長篠の合戦後、嫡男織田信忠に織田の家督を相続し、織田信忠は秋田城介に任官。天正4年(1576)安土城に本拠地を移転したあとである。カリスマ創業者が社長を引退して会長になっている状態だと思っていい。

その信長の近習である。どう少なく見積もっても、現代であれば秘書室級の格で、相応の年齢と経験を重ねている。

■老齢になると怒鳴られるのはきつい

そこで、現代のわれわれに比して考えてみよう。

老齢になってくると「他人に怒鳴られる」経験がなくて久しくなる。そんな場に立つと、殴り返す気力よりも「なぜ怒鳴られるのだ?」という当惑が先に立つ。

先年、老母が認知症でいよいよ手に負えなくなり、施設へあずかっていただく手続きをしたとき、施設の会議室で、ケアマネジャーさんやら介護士さんやらの目の前で、神戸から来た私の実妹に「お兄ちゃんは何もやってない!」と、ものすげえ大声で怒鳴られ、かなり凹んだ。

冷静に考えれば介護認定の日程調整や転所手続きから、おむつの交換まで、私のやっていることは膨大で、凹む理由はどこにもない。後日、実妹に事情をきいてみると「テレビの報道番組の『衝撃! 介護施設の虐待』って特集を観て、不安になった」というので、腰から力が抜けた。「滅多にないから特集が組まれる」ってのは情報の基本なのだが。

つまり何が言いたいかというと、若いときは怒鳴られたり殴られたりするのはOKだが、相応に地位や年齢があがるときつくなるってことだ。

■周囲の環境の変化に気づかない「罪」

その結果、織田信長がどういう最期をむかえることになったか。歴史が示す通りである。この織田信長の「自分は気にしていないのに、周囲の環境が変化したことに気づかない」という行動は、信長固有のものとおもいがちだ。

しかし、よく考えてほしい。

パワハラジジイ・セクハラジジイとやっていることは変わらない。

鈴木輝一郎『老害の戦国史』(毎日新聞出版)

過日、筆者と同世代の芸能人(このとき60代なかばで、年金が下りる年代だ)がラジオ番組で、若い女性パーソナリティから「○○さん、歌っているときにも、あんなに高く足が上がるんですね」と話を振られ、「真ん中の足はもっと高くあがる」と失言し、釈明に奔走しているのが報じられた。

織田信長がいい歳をして重臣たちを殴ることについては「信長が悪い」と判断できるが、某芸能人の「真ん中の足」発言に対しては、「それのどこが悪いんだ?」「そんなクダラナイジョークも許されないのか?」と思わなかったか? 私は思った。若い頃にはその種の下ネタを放ちまくっていたからである。

これが「時代がかわるとモラルも変わる」ということだ。

……それにしても、めんどくせえ世の中になったものではある--ってな慨嘆が、そもそも「老害」だと承知のうえでの愚痴なのだが。

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鈴木 輝一郎(すずき・きいちろう)
小説家
1960年岐阜県生まれ。1991年近未来小説『情断!』でデビュー。高齢化社会を描いたミステリ『めんどうみてあげるね 新宿職安前託老所』で第47回日本推理作家協会賞を受賞。『家康の選択』『光秀の選択』『本願寺顕如』『国書偽造』など著書多数。日本推理作家協会・日本文藝家協会会員。
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(小説家 鈴木 輝一郎)