「なんか血みたいなものが…」「肉片らしきものも」男性従業員(60)がクマに露天風呂から連れ去られ…見落とされた“事故の予兆”とは
2025年、日本におけるクマによる人身事故の被害者は238人、そのうち13人が死亡した。いずれも統計開始以来、最悪の数字である。特筆すべきは、自宅の居間や商業施設など、これまで考えられなかったような状況で人が襲われるケースが増えてきたことである。
【画像】救急隊員が「地面に落ちていた鼻を…」“顔のほとんどを失う”事態になった男性のその後の記録、トレイルカメラに映った親子熊の姿、“怪物ヒグマ”による水にぬれた不気味な足跡などの写真を見る
『羆を撃つ』(文藝春秋)より、岩手県北上市の温泉施設で従業員が襲われた事故を検証した「名物レフェリーはクマに連れ去られた」を紹介する。(全2回の1回目)

ツキノワグマ ©時事通信社
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時間になっても現れない従業員を探しにいくと…
岩手県北上市は半導体や自動車関連工場などが立ち並ぶ東北有数の工業都市である。その街の中心部から西へ車で30分ほど走る。田園地帯を抜け、奥羽山脈へと向かう谷筋をたどっていくと、やがて夏油川(げとうがわ)の渓谷沿いに「瀬美(せみ)温泉」の看板が見えてくる。
平安時代末期の開湯と伝わる秘湯である。
2025年10月16日朝、その瀬美温泉の代表取締役、岩本和裕(53・当時、以下同)は車寄せで首を傾げていた。この日、岩本は東京に用事があり、北上駅から新幹線に乗る予定だった。
そういうとき、岩本を駅まで車で送り届けるのは従業員のSさん(60)の役目だった。
真面目な性格のSさんは、遅くとも出発時刻の30分前には車を準備するのが常だった。
ところがその日、車寄せには車もSさんの姿もない。そんなことはこれまで一度もなかった。時計を見ると、すでに伝えていた出発時刻の11時を過ぎようとしている。
するとフロントにいた支配人が「ちょっと露天風呂にいないか、見てきます」と言って走っていった。
屋根のない露天風呂にはこの時期、落ち葉が溜まりやすい。
しかもこの日は朝から雨が降っていた。
支配人はSさんが溜まった落ち葉を取り除くのに手間取っているのでは、と考えたのだ。
やがて露天風呂を見に行った支配人が息せき切って戻ってきた。
「Sさんは……いませんでした。でも、なんか血みたいなものが……」
喘ぐようにそう告げる彼の顔面は蒼白だった。
岩本が露天風呂に駆け付けると、そこにはSさんの眼鏡とサンダル、そして落ち葉を掬うための網が散乱していた。風呂の周りに敷かれた滑り止め用の人工芝マットがなぜか搔きむしられたようにグチャグチャになっていた。
そして雨の中でもそれと分かる血だまりがあった。
3日前の目撃証言
岩本がそのときのことを振り返る。
「眼鏡とか血だまりとか目に見えているんですが、それが何を意味するのか、何にも結び付かなかったですね。何かトラブルに巻き込まれたとか、そういうこともまったく考えつかなかった。“いったい、これは何なんだ”という考えがグルグル回っていただけです」
岩本は「Sさぁーん! Sさぁーん!」と大声を出しながら、辺りを20分ほど探し続けたが、反応はない。
防犯カメラを確認すると、9時17分に露天風呂へと向かうSさんの姿が映っていた。
11時15分、警察に通報。
「(110番の担当者は)不審者が入ってきて、トラブルになったんじゃないか、ということを最初は言ってました」
通報から20分ほどで到着した警察官は、現場検証の結果、岩本にこう告げた。
「人間の仕業じゃないですね。おそらくクマにやられた可能性が高いです」
予想外の言葉に岩本は言葉を失った。
ここで初めて、頭を過(よぎ)ったことがある。
「実は3日前に露天風呂に入っていた女性客が『川の向こうにクマがいた』というので警察に通報していたんです。けれどまさか、というのが正直なところでした」
山深い場所である。過去には周辺でクマが目撃されたこともあったが、一方でシカやイノシシなど他の動物と見間違えるケースも多々あった。
だが、後で振り返ると、この女性客の目撃証言は重要な意味を持っていた。
実はこの目撃証言に先立つ10月8日には、温泉から2キロほど上流にある山林で、クマに襲われたと見られるキノコ採りの70代男性の遺体が見つかっていたからだ。
「もちろん、そのことは知っていました。けれど、今思うと、やっぱりまだどこか他人事として受け止めていたんだと思います」
そう言って、岩本は唇をかみ締めた。
露天風呂の獣臭
北上市猟友会の会長を務めるハンター、鶴山博(76)が瀬美温泉に到着したのは10月16日昼過ぎのことだった。
北上市の担当部署から〈温泉の従業員がクマに襲われて行方不明になった。捜索するのでハンターの人たちも来てほしい〉との依頼を受けて駆け付けたのである。
あのクマじゃないか--第一報を聞いた鶴山の脳裏を過ったのは、やはり8日にキノコ採りの男性を襲ったクマである。
この8日の事故現場には、鶴山も立ち会っていた。
まだ現場の山林周辺にクマが潜んでいる可能性があったため、現場検証をする警察官の護衛役を担ったのである。
現場は凄惨を極めていた。
「(被害者の)ご遺体は、ほとんどバラバラな状態で、性別もわからなかったほどです。離れたところに首らしきものがあるのが目に入りました」(鶴山)
被害者の遺体は、激しく食害されていたのである。
人を襲ったクマは即駆除が鉄則だが、現場は山深い場所である。山狩りをしてこのクマを追跡することは現実的とは言えなかった。
「現場から上流はダムへと通じており、クマはそっちに向かったんじゃないかと思ってました。
ただその後、13日に瀬美温泉で入浴客による目撃があった。だから『爆竹を鳴らして追い払ってください』と伝えていました。もし8日のクマが温泉の方に下ってきたんだとしたら、罠かけた方がいいな、と考えていたところで、16日の事故が起きてしまった」(同前)
瀬美温泉に着いてみると、規制線が張られる物々しい雰囲気の中、警察や消防の人間が行き交い、雨合羽を着込んだ報道陣も押し寄せていた。
警察による現場検証が行われている傍らで、鶴山は仲間のハンターと現場を確認する。
露天風呂は夏油川を見下ろす谷の縁にある。
柵の先は5メートルほどの斜面となって川へ落ち込み、対岸には急な崖がそそり立つ。
露天風呂への出入り口付近、柵のすぐそばに50センチほどの血だまりが広がっていた。
そして柵の下へと何かが引きずられたような痕跡があった。
クマの体毛や何らかの肉片らしきものも採取された。
川に背を向けて露天風呂の清掃を行っていた被害者が、川から上ってきたクマに背後から突然襲われて、連れ去られた可能性が高かった。
鶴山には露天風呂に入った瞬間から気になっていることがあった。
「クマのね、臭いがするんですよ」
被害者がクマに襲われたのだとすれば、獣臭が残っていたとしてもおかしくはない。
だがその臭いは、対岸からこちらに向かって風が吹いたときに漂ってくるようだった。
仲間のハンターとそのことを確認しながら、鶴山は周囲の警戒を続けた。
もしかするとクマはまだ付近にとどまっているのかもしれなかった。
結局、この日は二次被害を避けるため時ごろに現場検証と捜索を打ち切り、翌朝から本格的な捜索に入ることになった。
鶴山が現場を引き上げるとき、かすかにまた獣臭が漂ってきた。
(文中一部敬称略)
〈「人間の頭髪や顔の一部が…」クマに襲われた男性従業員(60)は遺体で発見…被害者を50メートルも引きずった“クマの執着心”の恐ろしさ〉へ続く
(伊藤 秀倫)
