「そんなのウソよ。ありえない。間違ってるんじゃないの?」がんを告白→泣き崩れるフリーアナ・笠井信輔に元アナウンサーの妻が即答した一言に込められた“真意”とは〉から続く

 悪性リンパ腫に蝕まれ、激痛、頻尿、激痩せ、失禁と身体はすでに限界。だがフリーアナとして「爪痕を残したい」一心から、仕事を続けた笠井信輔氏。その裏ではとてつもない葛藤、苦労を抱える日常があった。いったいどのような闘病生活を送っていたのか。同氏の著書『生きる力  がん寛解までの記録』(角川新書)の一部を抜粋して紹介する。

【画像】治療で日に日に抜けていった髪の毛…闘病中は公開を控えていたという


「お花見。すてきでしょ」

◆◆◆

尿もれ事件

 セカンドオピニオンのための検査結果を待っている間も、痛みと闘いながら毎日仕事を続けていました。するととうとう。

〈■11月30日(土) スマホに残っていたメモ

 初めて漏らす

 初めておむつ買う

 整骨院からタクシーに乗って自宅最寄り駅で降りる

 とたんに強烈な尿意。トイレは駅にしかない。うまく走れない中トイレに駆け込む

 しかし、間に合わず。ついに漏らしてしまった

 そのまま、駅前の薬局へ

 尿漏れパッドと、腰痛がひどくなってきたので鎮痛剤を購入

 レジに並んだが、思い立って引き返して、夜用のおむつも買う。おむつをするのはプライドが許さなかったが、妻にも言われたので……

 もう2時間おきにトイレにいくのは、腰が痛くていやなのだ〉

 日記をつける習慣はありませんでしたが、この日は起きたことをスマホのメモ機能に残していました。漏らすなんて……相当ショックだったのです。

 これまで、こうしたことは何度もありました。近くにトイレがあったりして、ギリギリセーフなことが何度も続いていたのですが、この日ついにOUT!

 情けなかったです。パンツは捨てました。 

 11月ころから2時間に1回、就寝中3回は必ずトイレに立つ。しかし、腰が痛くて起きられない。もんどり打ってなんとか起きて、トイレに行くともう目がさめてしまう。それを夜に3回。完全な睡眠不足。

 周りからは、「『とくダネ!』がなくなって、ゆっくり眠れるようになって良かったですね」と山のように言われましたが、むしろ「とくダネ!」時代の方が体は楽でした。しかし、「今がんの検査中なんです」などと言えるはずもなく、そんな時は力なく「そうですね」と愛想笑いをするしかありません。

 妻からは、「おむつをしたほうがいいんじゃない? そのほうが眠れるんじゃないの?」そんなアドバイスを受けていましたが、私は首をたてに振りませんでした。おむつをするなんてプライドが許さなかったのです。

 しかし、外で漏らしたことでプライドも何もなくなりました。その晩から私はおむつをして寝ることにしたのですが、寝たままおむつに放尿することがあれほど大変だとは思いませんでした。普通に出そうとしても絶対に出ない。下腹部に強い力をいれていきまないと出てこない。したいのに出てこないのです。

 結果、毎回、「うううううううん」とうめき声を上げながらおむつに放尿していました。夜の苦しみを少しでも軽減するために、介護ベッドも購入しました。背中部分が自動で起き上がるものです。7万円ほどしましたが、これは大変助かりました。

 となりの部屋で寝ている次男は、

「ゆうべも凄い声だしてたね」

 と、よく心配してくれていました。

 あれほどダイエットに苦労していたのに、黙っていてもどんどん体重が減ってきて、

「最近、笠井さんシュッとしてきてカッコよくなってきましたね。やっぱり、フリーになると違いますね」

 何も知らない後輩アナから、そんなことを言ってもらって「そう?」なんておどけたりして……。なにより、いつの間にか走れなくなっていました。足が速く動かないのです。

 腰痛、失禁、体重減、おむつ、介護ベッド、走れない……。セカンドオピニオンを受けなくても自分は大変な病気にかかってしまっている。それは容易にわかることでした。

 のちに、これらの苦しみはすべてがんが原因だったとわかるのです。

問題は、いつ入院するべきか?

 セカンドオピニオンの結論が出る前から、重大な懸案事項がありました。

 それは「いつ入院するか?」。

 前述のように12 月に入る前から私の体はボロボロでした。

 電車に乗るとき駅でトイレに行き、乗換駅でトイレに寄り、降りた駅でまたトイレに入って仕事に向かう。排尿の痛みは我慢ならないほどで、時間もかかるので必ず個室を利用する。そのため移動時間は通常より30分余計に取っておかないと約束の時間に間に合わなくなるのです。

 トイレに行く間隔があいてしまうと、突然「猛烈な尿意」に襲われ、そこからすぐにトイレに駆け込まないと漏れてしまう。そして、あの尿漏れ事件が起きてしまいました。

 正直、体は12月に入ると限界に近い状況でした。

 最初の病院の先生は11月下旬から12月初旬の入院をすすめてくださいました。

「とにかく早く入院して、入院しながら検査をすすめましょう」と。

「命」と「仕事」を天秤にかける

 よほど悪いのだろうと察しがつきました。それでも、私は入院を躊躇していました。12月は重要な仕事が目白押しだったのです。

(1)講演会が5件。もし、がんならば、長期の入院のおそれがあり、収入が一切なくなってしまう。入院費を稼ぐためにも、できる限り仕事をしてから入院したい。

(2)テレビ朝日の人気クイズ番組「Qさま!!」。これに出れば各民放ゴールデン番組すべてに出演したことになる。

(3)笑福亭鶴瓶師匠と、ももいろクローバーZのトーク番組「桃色つるべ」。鶴瓶師匠の優しさで出演が決まった番組をキャンセルできない。

(4)「ノンストップ!」の密着取材。古き良き仲間からの依頼で、なんとしても受けたい。

(5)そして、そして、12月16日(月)「徹子の部屋」。あの国民的トーク番組にフリーになりたての新米タレントが呼んでもらえた。「すみません、がんになっちゃったんでやめます」なんて言えるわけがない。

 一体何を考えているのか? 「命」と「仕事」を天秤にかけたら「命」を優先しなければいけないことは明白。皆さんはそう思うかもしれません。しかし私の思いは違うところにありました。「これから長期にわたって私は世の中から姿を消すことになる。もしかすると、もうテレビ界に復帰できないかもしれない」、「だとしたらその前になんとか世間に“爪痕”を残しておきたい」そんな思いが強かったのです。

 妻も元アナウンサーです。私の気持ちを理解してくれていました。妻が「即入院して」と頼んで来ていたら、私は「徹子の部屋」に出演することはなかったでしょう。

「悪性リンパ腫が確定した場合、なんとか『徹子の部屋』の収録日12月16日までは入院を延ばしたいんですが……」

 私はセカンドオピニオンの先生にそのことを申し入れました。すると、

「笠井さんは……『徹子の部屋』に呼ばれる人なんですか?」

 先生から明らかにいつもと違う反応が返ってきました。やっぱり「徹子」は違う、「とくダネ!」は知らなくても「徹子の部屋」は知っている! 放送開始44年というのは伊達じゃなかった!

「そうですねえ……2週間でしたら……延ばしても治療の方は大丈夫でしょう。そこまで急速に悪化するものでもありませんから」

 先生もわかってくださいました。入院は「徹子の部屋」の収録を待ってから。しかし、ギリギリの判断という口ぶりではありました。

 問題は、悲鳴をあげている私の体。あと2週間もってほしい。

〈「ほとんど無数といっていいほどがんが全身に散らばっています」セカンドオピニオンで聞かされた“全身のあちこちが黄色く光っている”という事実…元アナ笠井信輔が告白する“死を覚悟した”瞬間とは〉へ続く

(笠井 信輔/Webオリジナル(外部転載))