撮影・内外タイムス

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人生100年時代と呼ばれる昨今。実業家の花蜜幸伸氏は57歳という若さながら、およそ常人が経験し得ない壮絶な人生を歩んできた。

世界初のフードデリバリー「出前館」の創業者ながら、その後は友人の証券マンにだまされ、突如10億円の借金を抱えることになる。都心のタワマン生活から一気に無一文になった花蜜氏をさらに追い詰めたのが闇金からの返済圧力に加え、金融庁からはいわれのない「相場操縦」という罪状。ついには東京地検特捜部までが彼を奈落の底へと追い詰めていく。

当時は「死ぬ元気すらなかった」と語るほど追い込まれた花蜜氏に、そのすさまじいこれまでの半生と今後の「夢」について余すことなく聞いてみた。

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序章 あまり語られてこなかった「出前館」以前の話

「出前館」とその後の「相場操縦」の話ばかりが語られる花蜜氏だが、出生から「出前館」創業までの話は余り知られていない。抜群の経営センスと並外れた行動力を生んだ原動力はいかにして育まれたのだろうか。

「本当に貧しい家に生まれて、親父は中卒の肉体労働者で夜勤ばかり。あまり交流した記憶はありません。親は病弱だった姉にかかりきりで、幼稚園の頃から鍵っ子でした」

これといって特別な環境で育ったわけでもなく、むしろ中流以下とも呼べる家庭環境だった花蜜氏がよく親から言われていたのは、その当時の子どもなら誰もが言われていた「普通の」言葉だった。

「とにかく勉強しろ。いい大学に入れ。できれば公務員が安定してる。和歌山が地元だったので『和歌山県庁に入れ』って、そんなことばかり言われましたよ」

幼いながらも花蜜少年はそれに反抗するわけもなく、ただ何も考えず「普通にちょっとだけ優秀な子」だったという。転機は「大学受験」。現役受験に失敗し、1年間の浪人生活を単身、大阪の代々木ゼミナールで送ることになる。ただ、受験勉強は性には合わなかった。

「代ゼミに入って1カ月目くらいで女の子と同棲(どうせい)を始めて、一切勉強しなくなりました。当然のごとく次の年も落ちた(笑)」

勉強はてんで駄目。かといってどこかの企業に就職して正社員で働くことにも精が出なかった花蜜青年はその後、いくつかのアルバイトを掛け持ちして働いた。その中の1つに「ホストクラブ」があった。

「男前でもない男は『飲む係』にしかならないわけですよ。とにかく『量を飲め』となって。でもある時かなり泥酔してトイレでぶっ倒れてしまって。そのまま真っ暗な店内に取り残された時、ふと『こんなことやってていいのかな』と考えたんです。こんなところで酔いつぶれるだけの人生なんてって…」

起業するきっかけが「ホストでくたびれたから」と話す花蜜氏。今考えるとこの時が、後の「出前館」誕生へとつながる重要な分岐点だったことは誰の目にも明らかだ。ただ、現状を変えるのに「起業」が選択肢に入ること自体、普通の人にはあり得ないことだ。

「出前館」誕生につながる布石 バイク便事業始動

バイク便事業を始め、自社ビルを構えた(本人提供)

きっかけは何の変哲もない友人との会話だった。

「バイク便がいいんじゃないの?バイク1つあれば起業できるよ」

「そっか。じゃあそうしよう」

すぐにバイクの免許を取り、6万円ぐらいの小さなボロバイクを購入。当時、運んでいた企業間の書類の配送事業で一時期は約100人のライダーを束ね、自社ビルまで構えた。しかし「速さ」を追求する余り、交通事故は絶えなかった。荷物の破損事故も頻発する中でも利益はきちんと出ていたという。

「バイク便業界では後発組で業界の協定みたいなのには入らず、かなり値引いた価格でやってたので、お客さんは取り放題だった。ただ、インターネットの出現で企業がデータをメールに添付して送れるようになって、事業的に『もうこの業界終わったわ』と。逆に何か『ネットでやらないといけないな』という思いになった」

バイク便事業で成功していた時期(本人提供)

映画をパクッて世界初のフードデリバリー「出前館」創業

撮影・内外タイムス

「映画のパクリです(笑)」

きっかけは、花蜜氏が何気なく見た1本の映画だった。

「『ザ・インターネット』っていうサンドラ・ブロック主演の映画があったんですけど、あれを当時見て、その映画のワンシーンにパソコンでピザを頼んでるシーンがあったのを見かけて。将来こんな時代になりそうだなと思う映像だったんです」

インターネットを介したフードデリバリー事業は、すでに誰かが事業化していると思ったが、実際は日本はおろか世界を見渡してもまだ誰もやっていなかった。

「みんな間抜けだから、これを事業化できるということに誰も気づいていないんじゃないかと。今始めれば『近未来的なビジネスモデルは俺のものだ』みたいな勢いでやることになったのが出前館のきっかけです」

ただ当時はインターネットが普及し始めたばかり。飲食店に営業をかけたところで「想像もできない感じで、全く口説けないという事態に直面した」が、それでも客先で粘り強く交渉し続けたという。

「チラシを印刷するなんて不毛な時代は終わりにしましょうよ。インターネットでデリバリーが頼める時代を一緒に作りませんか」

当時はまだ「紙」が全盛の時代。新聞の購読者層も多かった時代に近隣住民へ広告を打つ代表的な手段が「チラシ」の配布だった。各飲食店がこぞって自慢のメニューをふんだんに撮影し、その写真とともに凝ったデザインを装飾したチラシ作りが隆盛だった。

そんな状況でも、花蜜氏はただ1人の営業担当として全国を駆けずり回り、1年間で全国2800店舗から賛同を得ることができた。

「最初は相手にされなかったが、何回も話しているうちに『わかった。付き合ってやるよ』という声が出始めて。しまいには『仲間集めてやるから説明しろよ』となって、ありがたいことに全国的に説明会を開かせていただける流れができました」

しかし、契約店舗は増えてもやはりインターネットが全く普及していない時代。注文は全く入らず、初年度の売上高が年商10万円という記録を樹立してしまう。社長職を次の中村利江氏に引き継ぐまで利益を上げることは難しかったが、出前館はこの中村体制で一気に急成長を遂げることになる。

その中村氏との出会いは花蜜氏の営業活動がきっかけだった。当時ハークスレイ(ほっかほっか亭本部)でデリバリー担当の責任者だったことから「鬼部長みたいにいろいろといじめられたが、次第に仲良くなって飲みに行く仲にまでなった」というのが付き合いの始まりだった。花蜜氏は中村氏との経営感覚の違いについて、こう表現する。

「例えば事業をする際に、私は最初から全国を考えますけど、彼女はまず一部の範囲で成功モデルを作って、そこから広めていくべきという考え方が強いので、根本的な所で取り組み方が違っていた。いいか悪いかは別にして…(笑)」

中村利江氏(出前館の公式Xより)

「出前館」の正式名称は「夢の街創造委員会株式会社」。今は「出前館」というブランドが圧倒的だが、創業当初は「夢のような街を作る」ことがコンセプトだった。そして、当時から日本のインターネット・プラットフォームの雄は「楽天」1強である。

「我々も楽天みたいに何でも買えて、出前ももちろん頼めるということで『楽天を打ち負かす』という気持ちだった。『夢の街』というバーチャルな世界に生活のあらゆるものを網羅した『館』をつくり、イメージ的には『メタバース』的なものを27年前に考えていた。今はそのうちの『出前館』だけが残ったということ」

インタビュー・文/寉見陽平 内外タイムス編集部

実業家・花蜜幸伸インタビュー(第2回)タワマンからボロアパートへ 闇金業者からの苛烈極まる追い込み に続く。

《プロフィール》
花蜜幸伸(はなみつ・こうしん)1969年和歌山県海南市生まれ。高校卒業後、大学受験に失敗。さまざまなアルバイトを経験した後、21歳でバイク便事業を興し起業を果たす。1999年にインターネットの普及に伴い、バイク便事業に見切りをつけ、「夢の街創造委員会株式会社」(現社名:株式会社出前館)を創業。その後、会長、戦略顧問を経て退任するも2013年に再び特別顧問として復帰。「出前館株価防衛事件」で全財産を失い、住所不定無職となる。さらに株価のやり取りをめぐって金融庁から強制捜査を受け、長い取り調べの末、東京地検特捜部に刑事告訴され在宅起訴、無罪主張で最高裁まで争うも刑が確定する。現在は犬猫殺処分ゼロの実現を目指す世界最大級の保護施設「ペットの里」、世界平和実現を目指した「ピース乾杯プロジェクト」の2つの事業を推し進めている。