「なんで死ぬのか、ピンと来んかったし」…終戦直後、司令と自決を供にする場から、「帰れ」と言われて帰った男の回想

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昭和20(1945)年8月15日、天皇自ら終戦を告げる「玉音」が放送された。大本営は8月16日、自衛をのぞく戦闘行動を禁止し、8月22日0時をもって、支那方面艦隊をのぞく全ての部隊にいっさいの戦闘行動を禁じた。だが、この時点では連合軍はまだ日本に進駐しておらず、その出方について不透明な点もあった。なかでも問題視されたのが、「国体の護持」(天皇を中心とする国家体制)がどうなるか、ということである。そこで日本陸海軍は、それぞれ精鋭部隊をもって秘密裏に「皇統護持」のための作戦を発動した。(第1部より続く)

「司令は自決される。お供したい者は集まれ」

三四三空司令・源田実大佐の訓示のあと、残った搭乗員、准士官以上の隊員に、飛行長の志賀淑雄少佐が、

「司令は自決される。お供したい者は午後8時に健民道場に集まれ」

と告げた。志賀は私に、

「余計なことは言わず、それだけ伝えた記憶があります。司令とは事前に打ち合わせをして、『自決の直前までもっていきますから。みな拳銃に弾丸はこめさせます。銃をとるとき、私が“待て”と声をかけますから、そこでほんとうのことをおっしゃってください』と。

それで、集合した隊員たちに、考え直す時間を与えなきゃいけませんから、あと何分したら--私は気が短いから5分と言ったと思いますが--決行するから、それまで用を足すなり自由にしろ、妻帯者と長男は帰れ、と。再度集合するまでに、何人かは帰ったようですね。で、集まりまして、司令から訓示があり、まず別杯、ついで拳銃に弾丸を込めろと命じ、込め終わったところで、『待て!』と、こう言ったんです」

このときの模様を、戦闘三〇一飛行隊整備分隊長・加藤種男大尉(戦後会社役員)が記録している。

平成11(1999)年、志賀の紹介をうけ、私が京都市に暮らす加藤方に電話をかけたとき、加藤はやや狼狽した様子で、

「あなた、どこまで知ってるんですか。ほんとうに飛行長が話を聞けと言われましたか」

と、はじめは躊躇したようだったが、やがて重い口を開き、さらに手記を郵送してくれた。〈私はいま、命も名もいらぬ同志がほしかった〉という、本記事の第一部冒頭に記した源田司令の言葉は、加藤の手記に拠っている。

「自決の場所は一転して作戦会議の場となった」

ことの真相を知らされた隊員たちは、思いもよらなかった新任務に奮い立った。

「全員興奮のなか、自決の場所は一転して作戦会議の場となった。ただちに配置が決定されました」

と、加藤大尉は回想する。この場に参加していた戦闘第七〇一飛行隊分隊長・山田良市大尉(戦後航空幕僚長)は、

「源田司令が自決する、というから、そうか、と。先輩やクラスメート、部下、みんな死んでしまって、自分だけ生き残っても仕方がない。ゲリラ戦をやってもはじまらん。

司令に心服していて、源田さんが死ぬんなら自分も死のう、と。ぼくは馬鹿だったかもしれん。いつでも戦で死ぬ覚悟はしてたから、そんなに深刻には考えなかったですね。ピストルを持って集合場所の健民道場に行き、満天の星--その夜はまた、特にきれいだった--を眺めながら、『生死一如』というけど、そんな悟りも開けぬまま、とうとう死ぬわい、と。拳銃で死ぬのは痛そうだけど仕方ないな、なんて思いながら、さばさばした気持ち。源田さんがあとで、お前、あのときニコニコしとったな、と言ってましたが。

別杯の酒がうまかったのは妙に憶えています。それで、弾丸を込めていざ自決、というときに、『待て!』となったわけです。死なずにすんだけど、そのときは『源田さんひどい。大石内蔵助の真似したな』、率直にそう思いましたよ」

一同のなかには、2日前に大村基地に着任したばかりで、司令、飛行長と話をしたこともなかった向井壽三郎大尉(戦後書店経営)もいた。向井は、突然の自決話に戸惑いながらも、士官としてのプライドからか、退出のチャンスにも体が金縛りにあったように動けず、その場に残って自決組に加わることになったと言う。

「なんで自決しなきゃいけないんだ」

また、一度は健民道場に集合したものの、再集合の場に参加しなかった戦闘三〇一飛行隊の宮崎勇少尉(戦後酒店経営)は、

「同じ飛行隊の柴田正司少尉と一緒に、拳銃を持っていきました。源田司令は軍刀に白いさらしを巻いたのを手に、自動車で来ましたね。それで、みんな集まったところで、妻帯者や長男は帰れと、いったん解散したんです。柴田さんと、『どうする?』『帰れと言うんなら帰ろうや』と、そのまま帰ることにしました。なんで死ぬのか、ピンと来んかったし」

と語っている。

こうして、「皇統護持作戦」に必要なメンバーは揃ったが、この「忠臣蔵」のような人選のやり方は、参加しなかった隊員たちには少なからず不快感をいだかせ、禍根を残した面もあったのは否定できない。

戦闘第七〇一飛行隊の佐々木原正夫少尉(戦後森永製菓勤務)が私に語ったこのときの記憶は、志賀少佐の回想とは少しニュアンスがちがう。

「私は、司令が自決されるから、搭乗員総員、拳銃を持って道場に集まれ、と聞いたと記憶しています。われわれにとっては寝耳に水で、なんで自決しなきゃいけないんだ、と反発しましたね。

いままで、命が惜しくて戦争やってたんじゃない、飛行機で死ぬのならいつでも死んでやる。負けたといっても、俺たちが負けたわけじゃない。一生懸命やるだけやったじゃないか。それを、国が負けたからって自決せよとは何ごとだ、と、私ら行かなかったんです。部下たちも、戦って死ぬのならいいけど、いったい何の責任をとって自決しなきゃいけないんですか、とみんな言ってました。

同じ七〇一飛行隊の村中一夫少尉は行きました、拳銃持って。だから、村中さん死んだのか、じゃあ遺品を山分けしようと、残った者たちで話してたら、誰も死なずに宿舎に帰ってきた。村中さんに『何の話だった?』と訊いても『うん』と生返事するだけで何も言わない……」

よほど思うところがあったのだろう。佐々木原の口調は、だんだん熱を帯びてきた。

「理由もなく自決なんてできるもんですか」

「後になって、これは『皇統護持の秘密作戦の人員を選抜するための芝居』だったという事情はわかりましたが、まったくね、赤穂浪士じゃあるまいし、まるで人格を疑って試されたみたいで不愉快でしたよ。戦後、志賀さんに、あんなカラクリで私らを騙したんですか、と食ってかかったことがありますよ。誰だって自決なんてくだらないと思う、それより、部下を無事に帰してやるのがほんとうじゃないですか、と。

みんな、戦争をやってきた搭乗員ばかり。役に立ってきた自負があります。それならそうと、ちゃんと命令してくれれば不服は言いません。せめて分隊士以上にでも話してくれればよかったと思います。しかし、ただ自決、と言われてもね、理由もなく自決なんてできるもんですか」

搭乗員たちに話が伝わるうちに、「司令と行をともにする者のみ」から「搭乗員総員」へと話がふくらみ、誤解を生じたのかもしれない。志賀は、

「不満はいっさい、私が負います。それほど大切な問題でしたから」

と言う。しかし、歴戦の戦闘機乗りとしての誇りが自決を拒んだ、佐々木原の気持ちは痛いほどに察せられた。

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