俳優たちは撮影本番で、初めて少女の「声」を聴かされた (C)MIME FILMS - TANIT FILMS

写真拡大

 2024年1月29日、パレスチナ・ガザ地区で、ひとりの少女が、イスラエル国防軍によって銃撃、殺害された。ヒンド・ラジャブちゃん、6歳だった(イスラム暦特有の年齢の数え方があるので、資料や報道によっては「5歳」もある)。

 この事件が、チュニジアのカウテール・ベン・ハニア監督(1977〜)によって、チュニジア=フランス合作「ヒンド・ラジャブの声」(THE VOCE OF HIND RAJAB)と題して映画化された。

【写真を見る】映画館に響き渡る6歳の少女の肉声…衝撃作を作った監督

「早く来て」「撃たれちゃう」「戦車が来る」

 ヒンドちゃんは、親戚たちと車で街を脱出するところを、イスラエル軍に囲まれた(母親は別だった)。この事実を知ったドイツ在住の親戚が、人道支援組織〈パレスチナ赤新月社〉に電話で救援を要請。ヒンドちゃんと〈赤新月社〉は、スマートフォン通話で連絡を取り合うことに成功する。

俳優たちは撮影本番で、初めて少女の「声」を聴かされた (C)MIME FILMS - TANIT FILMS

 イスラエル軍の銃撃を受けながら車中で脅える幼いヒンドちゃんは、なかなか状況をうまく説明できない。〈赤新月社〉スタッフは、必死になって会話をつづける。

 やがて、その異常な状況が少しずつ判明する。車中のひとたちは、ヒンドちゃんを除いて、全員、殺害されていた。つまり彼女は、6人の死体とともに、たったひとり、車中に取り残されているのだ。スマホの向こうからは、銃撃音や爆音が響いてくる。「早く来て」「撃たれちゃう」「戦車が来る」……。

 救急隊は、現場から8分の位置にいた。〈赤新月社〉スタッフは、すぐに救急隊を派遣しようとする。だが、それまでにも多くの救急隊が攻撃されていた。安全ルートが確保できないかぎり、出動許可は容易に下りない。その間にも、ヒンドちゃんの助けを求める声はつづく……。

 この事件を描いた「ヒンド・ラジャブの声」は、第82回(2025年)ヴェネツィア国際映画祭で、銀獅子賞(審査員大賞)を含む8部門で受賞したほか、本年の米アカデミー賞国際長編映画賞や、ゴールデングローブ賞でも非英語映画賞にノミネートされた。

 日本では、新聞国際面の小さな記事で報じられただけだったので、事件をご存じない方も多いだろう。この映画は、全編が〈パレスチナ赤新月社〉のオフィス内だけで展開する。戦場シーンは、一切登場しない。にもかかわらず、圧倒的な緊迫感とリアリズムで、ガザ地区の“悲劇”が、観客に迫ってくる。なぜなら――劇中に流れるヒンドちゃんの「声」は、現実に録音された、ナマの叫びだったのだ。

「このニュースは、当初、ヨーロッパでもほとんど報道されませんでした」

 と、このたび来日したカウテール・ベン・ハニア監督が語ってくれた。

衝撃的だった、ヒンドちゃんの「声」

「ガザ地区の悲劇に関しては、連日ニュースで死者の数が報じられるだけで、そこで起きている〈個〉の出来事については、なかなか伝わってきません。それだけに、いったいどうなっているのか、隔靴掻痒でした」(ベン・ハニア監督)

 2024年2月、ハニア監督は前作のドキュメンタリー映画「Four Daughters フォー・ドーターズ」のキャンペーンアメリカ・ロサンジェルスに滞在していた際、SNSで事件を知った。

「〈パレスチナ赤新月社〉が、SNSでヒンド・ラジャブの録音されていた“音声”を流していたのです。彼女と連絡が取れなくなって、すでに何日もたっていました。もしかしたら生存している可能性もあるので、情報を求める意味もあって、同社がヒンドの“音声”をSNSで公開したのです。幼い女の子が『助けて』と叫んでいました」

 だが、結果は……。ヒンドちゃんの遺体が発見されたのは、連絡が途絶えてから12日後だった。

「たいへん衝撃的で、つらい“音声”でした。その声が、ずっと耳から離れませんでした。自分にできることは何だろうかと考えました。わたしは映画監督です。だったら、これを映画にして、世界中に彼女の声を届けるべきだと思ったのです」

 それには、まず、ヒンドちゃんの母親の理解と許諾を得なければならない。

「そのころ、母親はまだガザ地区内にいたのですが、しばらくして、関係者の尽力で国外へ避難できました。さっそく母親に会い、私の考えを説明しました。もし彼女がNOといったら、このプロジェクトはあきらめるつもりでした。しかし幸い、とてもよく理解してくださって、“そういうことなら、あの娘の死も無駄にならないでしょう”と許諾をいただくことができました」

 次に、〈パレスチナ赤新月社〉に許諾と協力を求めた。

「彼らは、私がいままでに作ってきた映画をよく知っていて、これも、すぐにOKを得られました。“美しい映画にしてほしい”とのメッセージをもらい、ヒンド本人の音声も提供してもらいました」

 劇中で流れるヒンドちゃんの声は、録音されていた、実際の彼女の音声である。

フィクションとドキュメンタリーの境界線上を行く――

 撮影は、ベン・ハニア監督の母国であるチュニジアで〈赤新月社〉のオフィスを再現するセットを組み、おこなわれた。主要キャスト4人は、現実のスタッフに似た俳優たちがキャスティングされた。

「もちろん、俳優たちには、事前にセリフをすべて入れて(覚えて)もらいました。シーンの大半は、ヘッドセット越しの、ヒンドとの電話会話です。しかし、ヒンド本人の声は、事前に俳優には聴かせませんでした。彼らは撮影本番で、初めてヒンドの声を聴いたのです。よって、映画のなかで、俳優たちが驚いたり、叫んだり、涙を流しているのは、演技ではなく、ドキュメンタリーなのです。ほとんどのシーンが長回しで、やり直しはありません」

 まさに本作は、フィクションとドキュメンタリーの境界線上を行くような、独特な作品となった。特にクライマックスでは、ある手法で、現実の〈赤新月社〉スタッフたちの映像と、彼らを演じる俳優たちの映像が、重なるシーンがある。ここは映画ならではの表現で、スクリーン内で起きていることが現実だったことを、非常にうまく説明しているシーンだ。

「〈赤新月社〉に協力を求めたとき、音声だけでなく、そのほかのデータ――たとえば動画などもあれば、それらもすべて見せてほしいとお願いしました。そのなかに、彼らが苦しみながら対応している姿を記録したスマホ動画があったのです。最初から、ぜひこの動画は、映画のなかに生かしたいと思いました。これによって、本作は完全なドキュメンタリーではないが、かといって全編がフィクションでもないことを、伝えたかったのです」

 そして――結果はすでにわかっているので、私たちは、“最期”がどうやって訪れるのかを、劇中の俳優たちと一緒に目撃することになる。ラストでは、事件後の記録映像も出る。それはたいへんつらく、衝撃的なクライマックスだが、これが、ガザ地区で起きている現実なのだ。

「少しでも“変化”を、後押ししたい」

 カウテール・ベン・ハニア監督は1977年、チュニジアの生まれ。チュニジアやパリ(ソルボンヌ大学)で映画製作を学び、シリア内戦を題材にした「皮膚を売った男」(2020、チュニジア=フランスほか合作)で話題になった監督だ。ドキュメンタリーと劇映画の両方を撮っている。

 先述のように、本作はすでに世界中で高評価を得ているが、通常の映画とちがうのは、名だたる映画人が、続々とエグゼクティブ・プロデューサーとして参加していることだ。ブラッド・ピット、ホアキン・フェニックス、ルーニー・マーラ、アルフォンソ・キュアロン、ジョナサン・グレイザー、マイケル・ムーア、スパイク・リー……。

「この事件は、決して大きく報道されませんでした。つまり、あまり知られていない話なのです。しかもスター俳優は出ていませんし、言語はアラビア語なので、字幕が必要です。よって、この映画には、サポートが必要だったのです。そこで、あらゆるコネクションを使って働きかけたところ、本作を観た錚々たる人たちが、続々と名前を連ねてくれました」

 最後に、ベン・ハニア監督に、日本のカルチャーについてうかがってみた。

「私は、テレビで『名探偵コナン』など、日本のアニメーションを多く観て育ちました。ただ、アラブ社会では、アラビア語に吹き替えられているので、子どものころは、日本の作品だとは思っていませんでした。それだけに、なぜアラブ人が、チョップスティック(箸)で食事をしているのだろうと、不思議に思っていたほどです(笑)」

 日本映画も大好きだという。

「特に黒澤明と、小林正樹です。黒澤では、『羅生門』がベストですね。あの映画は、ストーリーテリングとはどういうものであるかを、教えてくれました。世の中の出来事には、リアルな現実と哲学的な面があり、決して一面で見ることはできない様々な定義があることを、とてもわかりやすく映像化しています」

 小林正樹といえば、海外ではなんといっても「怪談」が有名だが……。

「もちろん、『怪談』も『人間の條件』も好きですが、小林では、やはり『切腹』ですね。あの映画を初めて観たときの衝撃は、いまでも忘れられません」

 すでに次回作も出来上がっているらしい。

「実は、次回作の制作中に、この『ヒンド・ラジャブの声』が入ったので、一時中断していたのですが、最近、編集が終わったところです。1940年代からのチュニジアを舞台にした、ある家族の物語です」

 おそらく「ヒンド・ラジャブの声」は今後も、世界中で話題になるだろう。

「ガザ地区で起きていることについては、世界の見方も、変わりつつあります。ハリウッド映画界でも、最近は、パレスチナへの連帯を示してくれる人たちが増えてきました。しかし、まだまだ大きな変化にまでは至りません。私は、この映画で、すこしでも“変化”の後押しをしたいのです。日本のみなさんにとって、パレスチナ・ガザ地区は遠い存在かもしれません。しかし、いまの地球上では、こういった悲劇は、すべてが影響し合い、関連しています。ぜひ映画館に足を運んで、ご自分の目で、“目撃者”になっていただきたいのです。それが、“変化”を起こす、第一歩だと思います」

 映画「ヒンド・ラジャブの声」は、9月4日より、新宿武蔵野館、Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下、シネスイッチ銀座を皮切りに、全国で公開される。

森重良太(もりしげ・りょうた)
1958年生まれ。週刊新潮記者を皮切りに、新潮社で42年間、編集者をつとめ、現在はフリー。音楽ライター・富樫鉄火としても活躍中。

デイリー新潮編集部