日本陸軍の参加兵力約10万人のうち、3万人もの戦死者を出したインパール作戦。新潟県村上市の佐藤哲雄さんは、この“史上最悪の作戦”に、高田(現上越市)の歩兵第58連隊の分隊長として参加していた。

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佐藤哲雄さん(106)

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ハゲタカや猛獣に貪り食われ…

 撤退の道中、ハゲタカがね、羽を広げて体当たりしてくるんだよ。狙われたのは、負傷や飢え、マラリアなどの病気でフラフラになっている兵士。倒れたら最後、2羽3羽とのしかかられて、顔とか肌が出ている部分から長いクチバシでつつかれ、食われていく。

 ヒョウも、衰弱した兵を襲おうと木の上から機会を窺っている。帯剣の剣先を上にして地面に刺して光の反射で威嚇し、おっぱらおうとした。だけど、バタバタと倒れた兵は、ハゲタカや猛獣に貪り食われ、わずか数日で白骨になった。

 死屍累々の敗走路は“白骨街道”と呼ばれた。作戦開始は1944年3月。ビルマ(現ミャンマー)の国境付近から進軍し、英領インドのインパール攻略を目指した。だが、兵站を軽視した無謀な計画は、日本軍を総崩れに追い込む。

 分隊は15人。作戦を始める時、1人あたり米6合のほか、軍票で買い上げた牛、山羊、羊が配給されました。作戦を指揮した司令官の牟田口廉也が発案して自賛した「ジンギスカン作戦」。食料がなくなったら家畜を殺して喰えと。ところが、ビルマの大河・チンドウィン川を渡る際、小船の上の家畜が暴れた。揺れてこっちが危ないから、綱を切って家畜を川に落とすしかなかったんだ。渡河後も国境の険しい山岳地帯を越えないといかん。生きた動物を連れて行軍すること自体、無茶だったんだわ。

 私の所属した第31師団は激戦の末、命令通りインパール北方のコヒマを占領した。でも食料や弾薬の補給はない。だんだん英軍に追い込まれていった。

撃砲弾の破片が左足に突き刺さった

 私も迫撃砲弾の破片が左足に突き刺さって野戦病院へ。手足を縛られて「痛ければ声を上げて泣け」と言われながら、麻酔なしで破片を引っ張り出す応急手術を受けた。足を引きずって前線に戻ったら、多くの部隊がほぼ全滅状態でね。

 完全な負け戦ですよ。撤退命令は7月だったが、師団長の佐藤幸徳中将は、その前に独断で退却を決めました。部下の命を守ろうとした英断だったと思う。

 それでも、日本兵は英軍の激しい追撃に加え、飢餓や疫病で次々と力尽きていく。手榴弾を抱えてピンを抜き、自決する兵も相次いだ。極限の状況下、佐藤さんの支えになったのは、かつての上官の言葉だった。

 私が高田の連隊に転属して出征する時、それまで所属していた新発田の歩兵第16連隊の副官が、訓示でこう言ったんです。「死ぬばかりがお国のためではない。生きて帰って日本のために働け」と。お国のために死んでこいと教え込まれた時代だから、最初は理解できなかったけども、あの言葉があったから、生き延びることができた。

 撤退戦は、敵の弾に当たって死ぬより、餓死した兵の方が多かったんだ。喰うもんがないから、帯剣で掘り起こしたバナナの木の根っこや、赤いキノコなんかも煮て食べた。パイナップルの根っこは軍帽みたいに繊維だらけ。煮ても固くて食べられたもんじゃなかったな。とにかく、生き抜くことが最優先でした。

 ビルマで英軍の捕虜となった佐藤さんは、終戦から2年後に帰国。負けた兵が語るべきではないと、長らく戦争の記憶を封印してきたが、今は語り継ぐことが生き延びた自分の使命と考える。今年9月で107歳。

 戦争は人を殺すこと。酷い目に遭うのは下の人間ばかり。勝っても負けても死んだ者は帰ってこない。いいことのはずがねえな。

「週刊文春 電子版」では、特集「時代の証言 百寿者が見た戦争」をお読みいただけます。

「眼と口元にウジがわいて…」「一番怖かったのが人間」男性(101)がジャングル地帯で体験した“生き地獄”〉へ続く

(佐藤 哲雄/週刊文春 2026年8月13日・20日号)