中村芝翫、和装で届ける誰も観たことのない『リア王』に意気込み!/舞台『リア王』稽古場レポート
【写真】中村芝翫がリア王を熱演! 舞台『リア王』公開稽古の様子
◆着物に袴、打掛――和の衣装で届ける『リア王』
そして、驚かされたのはその衣装。リア王を演じる中村芝翫は着物に袴、長女ゴネリル役の松下由樹、次女リーガン役の朝月希和、末娘コーディリア役の井上小百合はそれぞれ、赤、緑、白の打掛をまとっており、そのほかのキャストも浴衣という、和装での稽古だった。本番でも和の衣装で上演されるとのこと、一体どのような『リア王』になるのか、その点でも期待が高まる。
公開されたシーンは2つ。まずは、老境のリア王が国土を3人の娘に分け与えようとする場面だ。ゴネリルやリーガンが言葉巧みな美辞麗句をリア王に向けて並べるのに対し、コーディリアは嘘のつけない素直さゆえに、その真意を伝えられず、父親を激高させてしまう。長女次女の甘言に有頂天になっている表情から一転、三女の言葉で一気に怒りの沸点が頂点に達する芝翫の変貌ぶりは、ド迫力。歌舞伎で培ったよく響く声での怒号には、圧倒されてしまった。
また、松下と朝月の2人による“耄碌した父への呆れ”を愚痴のように言い合う場面も見ものだ。老いた親への敬意が薄れてしまう子の心情は、現代でも近しいところがありそうだ。一方で、井上演じるコーディリアの無垢さもいじらしく見える。役柄のコントラストがくっきりと見えるようだった。
親子関係で言えば、庶子エドマンド(大野拓朗)が父グロスター伯爵(村田雄浩)の裏で腹に静かに滾らせる野心も素晴らしかった。独白シーンでの想いを露わにした時の表情と、父の前で見せる表情との変化にもぜひ注目していただきたい。
もう一つの場面は、嵐の荒野を失意のリアと道化(小倉久寛)、ケント伯爵(二反田雅澄)が進む場面。好き勝手に振る舞うリアに、付き従う道化や伯爵は困惑気味。吹きすさぶ風雨に晒されたリアの前に現れたのは、狂人となってしまったエドガー(三浦涼介)だった。この場面では、まさに狂気じみた三浦の演技力が場を支配する。おびえるように、だが荒ぶるように全身を強張らせている姿には、誰しもが目を離せなくなるのではないだろうか。そんな三浦を、包み込むように慈しむ芝翫の滲むような優しさにも魅了されてしまった。
稽古場で和装のキャストらが目に飛び込んできたときは、どんな異質なシェイクスピアが立ち上がるのだろうかと想像した。しかし、2つの場面を見て感じたことは、いまだかつて誰も観たことのない『リア王』になるであろうという予感と、歪さのない、むしろ調和を感じるほどの違和感のないお芝居だった。この試みが、新橋演舞場の舞台でどのように立ち上がるのか、大いに期待したい。
◆襲名10年の節目での大作挑戦に特別な思い
稽古場取材を終えた芝翫に、稽古の手ごたえや作品への想いなど、話を聞いた。
――今、まさに稽古場にお邪魔させていただいておりますが、稽古の手ごたえを芝翫さんご自身ではどのように感じていらっしゃいますか。
芝翫:まだ稽古が始まってそんなに日にちは立っておりませんが、ざっと全体を通した段階まで進んできました。歌舞伎ですと、気心も知れている仲間たちと演目に向かっていくことが当たり前にありますが、今回のような公演ですと、なかなか皆さんとの関係性がはっきりしないことも多いんです。ですが、今回はかなり早い段階から読み合せをさせていただいたこともあって、みんなの仲がすごく良いんですよ。本当に良いチームができあがっているんじゃないかと感じています。
ただ、せっかく負った良い傷を、みんなで舐め合って治してしまうような関係になってはいけないとも思っています。仲がいいからこそ、お互いに言うべきことや課題をしっかりと受け止めてやっていく。そうやって、全員で高め合いながら進めていけたらいいですね。
――演出・井上尊晶さんとのタッグも3回目となりますが、井上演出の印象は?
芝翫:最初の『オセロー』の時は僕自身が初めてのシェイクスピアで無我夢中でやらせていただきました。2回目の『夏の夜の夢』は割と気楽に臨めたのですが、今回は特に尊晶さんが細かくいろんなリクエストをしてくださっているなと感じますね。やっぱりこの年齢になると、だんだん保守的といいますか、「芝翫」という自分自身のテリトリーの中で温まってしまいがちなところがあるんです。けれど、尊晶さんとご一緒させていただくと、なかなか開けない自分自身の新しいページを、1枚めくってくださるような感覚があります。
――石井美樹子さんの訳の印象はいかがでしょうか。
芝翫:去年の秋頃に今回の石井先生の本を最初にいただいた時は、正直「え!これで芝居するの⁉」と思ってしまうくらい、難しく感じました。ですが、石井先生ご自身の並々ならぬ思いが詰まった戯曲です。今回は翻訳の石井先生がずっと稽古場に詰めてくださっています。一字一句丁寧に説明してくださるので、非常に責任を感じますね。
本読みの時はまるで学校の授業のようでした。みんなで机を並べて「この言葉はどういう意味ですか?」と一つずつ教わっていくのですが、例えば道化の存在にしても、ただおかしいだけではなく、名前もわからないような学識ある人物で王が絶対に反抗しない相手だったとか、当時の歴史背景や王の交代(改元)にまつわる裏話まで教えていただけて本当に嬉しいです。
シェイクスピアの戯曲にはト書きがありませんし、当時の言葉が使われているので、僕の脳みそだけでは理解しきれない部分もあるのですが、そこを尊晶さんが噛み砕き、石井先生がいろいろと丁寧に教えてくださるんです。シェイクスピアの言葉は本を読んだだけでは難しくても、内面でしっかり噛みしめて、自分の肉体から出てくる言葉へ置き換えていく。その作業は苦しくもありますが、本当に楽しいですね。
――『リア王』という作品や役柄について、現時点ではどのように捉えていらっしゃいますか。
芝翫:1605年に書かれた作品が、この2026年の現代でも上演されていて、親子関係や家督のこと、老害、娘たちとの関係といったテーマが今なお現代に通じているというのは、本当にすごい作品ですね。戯曲自体がとてもしっかりしている分、「ここが足りない」といった言い訳が効かないのは少し辛いところでもあります。うちの場合は娘ではなく、3人の息子がいますが、あんな扱いをされないように気をつけなきゃいけないなという思いで、毎日稽古しています(笑)。
役に関しては、どうしてもリア王が落ちぶれていく過程として捉えられがち。ですが、石井先生は「リアは成長していくのだ」とおっしゃるんです。道化に対して「寒いだろう、入れ」と気遣ったり、貧しい人々の痛みを自分のこととして感じ取ったりする姿は、昔の国王陛下だったら言わなかったはずの言葉。境遇を重ねる中で様々なことを学習しているんですね。リアの姿をそう捉えるとすごく面白いですし、役者として、演じていて本当に楽しい部分です。
――稽古を拝見し、和装での上演になるということも驚かされました。
芝翫:僕自身も今回の衣装を見た時は驚きました。単に「和物の衣裳だからびっくりした」ということではなく、何もない状態だからこそそれを身に纏った、というようなアプローチとして受け止めると非常に面白いですし、舞台の始まりを楽しみに観ていただけたら。
演出の尊晶さんの中には、いろいろな意図が含まれているのだと感じます。かつて蜷川幸雄さんとご一緒した際も、自然の猛威や現実の出来事を舞台に取り込むような演出がありましたが、昨今の酷暑をはじめとする自然に対する叫びや闘い、あるいは人間の成長といったテーマが、今回の演出にも反映されているのではないかと思います。
――芝翫さんにとって縁の深い、新橋演舞場での上演となりますね。この場所で上演できることへの思いはどのようなものがありますか。
芝翫:僕にとって新橋演舞場でのシェイクスピアというと、子供の頃に二代目尾上松緑のお兄さんが『オセロー(1977)』をで主演を演じられているのを見て「カッコいいな」と思ったり、尾上辰之助のお兄さんのイヤーゴーに憧れたりしていた記憶があります。以前、高麗屋・松本白鸚のお兄さんの『マクベス』を妻と観に行った帰りに、「色々なことに挑戦したいと言っているけれど、シェイクスピアをやりたいとは言わないわね」と妻から言われて、実はそこで「あ、やっていいんだ」と改めて気付かされたことがあったんです。
その後、松竹の西村プロデューサーから、芝翫襲名の際に「歌舞伎以外でもシェイクスピアの『オセロー』を新橋演舞場でやりませんか」とお声がけいただきました。そして襲名から10年目という節目に、再びこの新橋演舞場で『リア王』という大作をやらせていただけるのは本当にありがたいことだと感じています。新橋演舞場には花道があり、回り舞台があり、客席には提灯が下がっています。その演舞場ならではの和の空間でシェイクスピアをお見せできることの意味を大切にしながら、お届けしたいですね。
実は、インタビューを受けている本日は父の月命日ですし、明日は祖父の月命日。そうした個人的にも節目の頃にこのようにお話させていただき、襲名10周年というタイミングで『リア王』という大作をやらせていただけるのは、本当にありがたく、特別な思いがあります。ただ、この『リア王』だけに満足してとどまるのではなく、さすがに『ハムレット』などはもうできませんけれど(笑)、次は『マクベス』などにも挑戦させていただけるよう、これからも精進していきたいですね。
(取材・文・写真:宮崎新之)
舞台『リア王』は、9月6日〜22日東京・新橋演舞場にて上演。

