日銀は「2%インフレの定着」をどう見極めるつもりなのか、世界と日本の物価を変える3つの動きから読み解く

日銀の植田和男総裁は「基調的なインフレ率」をどう見極めるのか(写真;共同通信社)
値上げが当たり前になり、日本経済の低迷を招いたとされる「デフレ」は過去のものとなったようにみえる。この4年の物価上昇は一時的な揺り戻しなのか、それとも後戻りしない構造変化なのか。生成AI、グローバル化の変容、移民の制限--世界経済の需要と供給を変える3つの動きを追うと、インフレが恒常化する時代が見えてくる。その中で日銀は「2%インフレの定着」をどう見極めるのか。元日銀の神津多可思・日本証券アナリスト協会専務理事が解説する。(JBpress編集部)
世界経済を取り巻く物価環境は、コロナ禍を経て構造的に変わりつつある可能性がある。カギを握るのは3つの動きだ。
① 生成AIの急速な技術革新
② グローバル・サプライチェーンの分断
③ 先進国が高齢化する中の移民の制限
そうした要因が複合的に作用して、コロナ禍前の低インフレ、日本の場合は繰り返すマイルドなデフレから、より高いインフレが恒常化する時代に入りつつあるように見受けられる。日本でもかつての「物価は上がらないもの」と人々が考える「デフレ・ノルム」が消えようとしているが、日銀が目標としている2%のインフレが安定的に実現するかどうかはまだ分からない。この変化は企業のコストや賃金、そして金利の行方にも直結する。
生成AIの発展と「ジェボンズのパラドックス」
まず1点目に挙げた「生成AIの急速な技術革新」を見てみよう。
前回の記事では、「コンピュータ化が進んでも、統計上の生産性は高まらない」という「ソローのパラドックスに触れたが、今回は19世紀の英国の経済学者、ジェボンズが提唱した「ジェボンズのパラドックス」を取り上げたい。
彼が指摘したのは次のようなことだ。第一次産業革命をもたらした蒸気機関は、その効率向上で、より少ない石炭で動くようになったが、手軽に使えるようになった結果、石炭の消費は逆に増えてしまったという点をパラドックスとして指摘した。効率化によって需要を抑制するはずのイノベーションがかえって需要を増やしてしまう。そういったことは確かにある。
【参考記事】
AIブームは経済の起爆剤になるのか、「便利になった」だけで国の生産性が上がらない経済統計の罠
同じようなことが、今日の生成AIで起きている。急速な進歩に伴い、データセンターと生成AIを稼働させるための電力需要は予想以上に拡大している。
生成AIの進歩は、これまで人間がやっていた単純な作業をAIが代替し、省力化を実現する。実際、ソフトウェアのコーディングは飛躍的に効率化したと言われている。
しかし、生成AIのイノベーションは、そうした電力需要を抑制する力以上に、生成AIを利用するための様々なインフラの需要を大きく拡大させている。第一次産業革命時の蒸気機関と石炭の関係のように。しかもこれは世界共通で起こっている。
このように考えると、生成AIの発展は、当分は差し引きで需要刺激的に作用し続ける可能性がある。
「安いところから買えばいい」時代は終わった
次に「グローバル・サプライチェーンの分断」だ。
世界経済の供給サイドに目を向けると、世界の全ての国と地域が共通のマーケットでつながるグローバル化は、今や過去のものとなりつつある。
1990年代以降、先進国が新興国に積極的に直接投資を行い、グローバルに供給力が拡大した。それゆえ、大きな需要増があってもインフレにならない世界経済が実現された。
しかし、経済安全保障が強く意識される今日、経済学で言う比較優位*の原則で最適なサプライチェーンが実現できればそれで良い、ということにはならない。採算面の判断で特定の国あるいは地域にある財やサービスの供給を圧倒的に依存するということは、交易の相手国も常に採算面の判断で供給を続けてくれることを前提にしている。安全保障のように、それ以外の要素が交易継続の判断に入ってくると、突然、経済の安定的な運営が困難になる。
*:各国・地域が相対的に得意な分野に特化して財・サービスを供給し、それらを交易すれば双方に利益が生じるとする経済学の基本原則
このことは、二度の石油危機を経験した日本はよく分かっていたはずだ。しかし、1990年代以降のグローバル化の過程で、次第にそのリスクの認識は薄くなってきた。
地球上のすべての国と地域が一つのマーケットを通じて結び付くという一種の理想に陰りが生じたのは、いわゆる「リーマン・ショック」に象徴される2000年代後半の世界金融危機が契機だったであろう。米国が主導するグローバル化は良いことばかりではないと感じた国々は、次第に採算面の判断だけで行動しなくなった。
そうした変化の結果、先進国の企業は、程度の差はあるが、グローバル・サプライチェーンを再構築する必要に迫られた。こうした変容によって、世界経済の供給力の拡大スピードは、以前に比べ制約されるようになる。もし、需要の拡大スピードが変わらないとすれば、それによって世界経済のインフレ圧力が高まることになる。
移民制限で細る供給力、インフレ要因に
3点目の「先進国が高齢化する中の移民の制限」について考えてみる。
ウクライナ戦争や中東紛争をみれば明らかな通り、グローバル・サプライチェーンの変容と並行して、政治・軍事的にも世界はより分断されている。そして、そうした動きの中で、先進国の高齢化・人口減少という人口動態の変化を補ってきた移民についても、多くの国・地域で制約は強まっている。つまり、交易を通じた財・サービスの移動だけでなく、労働力の移動も停滞しようとしているのだ。
日本では、これまで移民の問題は他の先進国とは違う状況にあった。バブル崩壊後、グローバル化もあって、国内の供給力を刷新する必要性は高まったものの、激変を嫌う社会において、産業構造の変化は、直面する需要の変化に比べれば遅いものであった。それゆえ、もはや有効とは言えない需要に対応する供給力が残り、需給環境全体としては「需要不足=供給超過」が続いた。つまり、積極的に海外からの労働力に門戸を開く必要も乏しかった。
しかし今日、人手不足はいよいよ日本経済にとって目の前の問題となっている。そうであるからこそ、生成AIの急速な進歩が持つ省力化の側面が日本経済にとっては大きなプラスになる。
同じことは、高齢化は進むが移民は制限する先進国、あるいは韓国、中国のようにこれから急速に高齢化が進むアジアの経済についても言える。
ただし、生成AIが物理的な動作をする機械(アクチュエーター)と結び付いて、人間が行う動作の広範な部分をカバーするようになるまでは、まだ少し時間がかかりそうだ。
デジタル空間のAIエージェント、物理空間のフィジカルAIが、それこそ第一次産業革命時の蒸気機関のように汎用的に使われるようなるまでの間は、世界的な移民の制約は、経済の供給力を制約することになる。したがって、これもインフレ的に作用する可能性がある。
日本の「物価は上がらない」はもう消えたのか
以上、3点のように、世界経済において構造的にインフレ圧力が強まる可能性がある中で、日本のインフレはどうなるだろうか。
もう4年もの間、日銀が掲げる2%という目標を上回るという、久しく経験したことのない高いインフレに見舞われている。そうした中でも日銀は、「基調的なインフレ率」は2%になっていないという理由で、高いインフレに対し許容的な態度をとってきた。
その結果、これまでの物価は上がらないというノルムは消えつつあるようだ。政府・日銀の「物価と賃金の好循環」という掛け声の下で、企業にとってはコスト上昇を販売価格へ転嫁することへの抵抗感も薄れ、さらに購買する側にも「(値上げは)仕方ない」という感覚が広がっているように感じられる。
そうした空気の中で、おそらく日銀は、基調的なインフレ率に対する期待をしっかりと2%に定着させていくという金融政策をやっていくことになるのだと思う。では、それはどんな金融政策になるのだろうか。
他国には例のない「日銀版テーラー・ルール」
米国の金融政策が、経済の展開に対応して過去どう決定されてきたかを研究して導出された「テーラー・ルール」という定式化がある。1990年代に米スタンフォード大学のジョン・テーラー教授が提唱したものだ。
その後、いろいろなパターンがいろいろな研究者から提唱されているが、本質的には、大きな違いはない。「実際のインフレ率の目標からの乖離」と「経済実態を示す指標(多くの場合GDPギャップ)」に反応して政策金利が決められている、というかたちをとる。
このテーラー・ルールの考え方は、先進国の多くの中央銀行において、実際の政策金利がインフレに対し許容的なのか抑制的なのかを判断する一つの材料となっているようだ。そして、少なくとも公表文書等からすると、使われているのは「実際のインフレ率と目標との乖離」であって、今日、日銀が言っている「基調的なインフレ率と目標との乖離」ではない。つまり、日銀は、他に例のない日銀版のテーラー・ルールを想定していることになる。
実際のインフレ率から出発して、どう基調的なインフレ率を求めるか。この変換については、日銀から考え方を示すペーパーが発表されているので(「基調的な物価上昇率の概念と捉え方」、2026年3月30日、日銀レビュー)、大方のところは分かる。
問題はその先だ。これから実際のインフレ率予想については世の中に様々な統計やレポートがある。日銀もそれらを集約しているので、判断の材料になっていることは間違いない。
しかし、これらはいずれも実際のインフレ率の予想であって、基調的なインフレ率の予想ではない。したがって、厳密には、実際に入手できる様々なインフレ率の予想を、基調的なインフレ率の予想に変換しなければならない。
さらに、基調的なインフレ率の予想に変換できたとして、それに対する家計、企業、金融市場の期待がしっかりと目標値の2%に定着しているかどうかを日銀は気にするのではないかと思う。この点の確認は本当に難しい。そもそも、日本経済で活動する現役世代にとって、基調的なインフレ期待が2%で定着していた時期など、一度もないのだから。
基調的なインフレ率2%の「定着」は何を材料に?
日銀はしばしば、「2%の物価安定の目標を持続的・安定的に実現していく」と言っている。他方で、インフレ目標は長期的なものだとは言っていない。しかし、4年もの長い間、インフレ目標を上回る実際のインフレを許容してきたのであるから、少なくとも短期の目標とは言えないだろう。
家計、企業、金融市場のそれぞれにおいて、基調的なインフレ率に対する期待が2%に定着して初めて、物価安定の目標が持続的・安定的に実現したことになるのだろう。
だが、何を材料にその「定着」の判断をするのだろうか。基調的なインフレ率が2%に達しただけでは「定着」とは言えまい。
過去、高いインフレ率を2%に向けて抑え込んできた実績のある他の先進国の中央銀行であれば、その「2%のインフレ目標を堅持する」というメッセージが、家計、企業、金融市場に対して持つ説得性は高いだろう。しかし、日銀にはそうした実績はない。反対に、日銀の2%の物価目標が今日のインフレの主たる理由だという理解も決して一般的ではない。
政治を理由に「動かない日銀」ではもう済まない
このように考えると、日銀の金融政策はこれからも難しい局面が続く。金融市場には、「政治からの圧力でなかなか政策金利を上げることができない日銀」という評価があるが、今回考えたような世界経済の変容の中で、いつまでも同じ姿勢で済むとも思われない。
以前にも触れたが、中国の古典「易経」に「君子豹変、小人革面」という言葉がある。前半は有名で、ちゃんと判断できる人は、状況の変化に対応して、豹の毛が秋に鮮やかに生え替わるように、その行動を変えることができるという意味だろう。後半は、空気を読む付和雷同の人は、表面だけを変えて取り繕うというような意味だろう。
世界の、そして日本の物価環境が構造的に変わっているのだとすれば、日本の中央銀行も、小人ではなく、是非、君子であってほしい。
筆者:神津 多可思
