新幹線の車内で失われつつある、「すみません」「ありがとう」のひと言(写真はイメージです)

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もはや「おもてなし」の国ではない?

 日本には「おもてなし」の文化が根づいている、となんとなく思っている人は少なくないだろう。裏表のない心で相手の立場に立ち、心地よくすごしてもらうように気配りするよき伝統が日本にはある、と事あるごとに強調されているので、日本が「おもてなしの国だ」と信じて疑わない人が多くても不思議はない。

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 2013年の東京オリンピック招致に向けたプレゼンテーションで、フリーアナウンサーの滝川クリステルがスピーチで「おもてなし」という言葉を強調したことは、記憶している人が多いと思う。その年のユーキャン新語・流行語大賞で、この言葉は年間大賞を受賞している。

新幹線の車内で失われつつある、「すみません」「ありがとう」のひと言(写真はイメージです)

 実際、「おもてなし」の精神の源流は、室町時代にはじまった茶の湯にまでさかのぼるという。それはたしかに、高級な旅館や料亭などの接客の舞台では、いまなお息づいているのかもしれない。

 もちろん、接客文化としての「おもてなし」と、公共の場におけるマナーは同じものではない。それでも両者の根底には、相手の立場に立って気遣いをする姿勢があるのではないだろうか。それが日本人に広く根づいているか、という問いに対しては、残念ながら、筆者は素直に「Yes」と答えることができない。むしろ、最近の日本人からは「相手への気遣い」が少しずつ失われ、海外で過ごしているときのほうが、他者から気遣ってもらえると感じることさえある。

 最近、そう思わされるできごとがあった。それを受けて周囲の人にも尋ねてみたが、少なくとも日常生活のなかでは、「おもいやり」の精神など、もはやはるか遠くの世界のことだといわざるをえないようだ。

黙って隣に座る人の足の上をまたぐ

 先日、東海道新幹線に乗った際のこと。東京行きの「のぞみ号」で通路側の席に座り、窓側には20歳前後と思われる女性が2人座っていた。あるタイミングで筆者の隣、つまり3人掛けの真ん中に座る女性が立ち上がったので、足を引いて通れるスペースをつくろうと思った。だが、筆者が動く前にその女性は、なんら声をかけることもなく、筆者の足をほとんど蹴る勢いでまたいで通路に出たのである。

 唖然として声も出なかった。何人かにこのできごとを話したところ、どうやら、筆者だけが経験した特別なことではなかったようだ。

 まったく同じことをされた、という話をいくつも聞かされた。グリーン車を予約したのに、自席が隣の人が荷物置き場にしているのは普通で、それを退ける際に詫びの一言もないのも、また普通だという。弁当を食べていた若い男性に、足の上に箸を落とされても、黙って拾うだけで「すみません」の一言もない。みなそんな体験ばかりしている。

 そこで筆者は以後、新幹線に乗るたびにあえて通路側の席を予約し、窓側や中央の席の人が化粧室などに行くとき、どのように行動するかを観察することにした。

 すると、少なくとも筆者が見た範囲では、「すみません」とか「通してください」などと声をかけた人はいなかった。前述の女性のように、こちらが身を引く間もなく隣席の人の足を蹴るようにしてまたぐのは、さすがに例外だとしても、ほとんどの人が黙って筆者の足をまたいでいった。

 最近、リクライニングを倒す際に、後席に声をかける人は多い。これは一種のマナーとして広く共有されているから、それに従う人が多いということだろう。だが、席を立つ際の声かけは、そこまで定着していない。そのため、黙って人の足をまたぐ人が増えているのだろうか。

 そうだとすれば、日本人が他者の立場を想像し、自分の行動が相手にどう受け取られるかを考えなくなったということだ。

 ちなみに、筆者は仕事柄、頻繁にヨーロッパに行くが、高速鉄道で上記のような場面が生じたとき、声をかけられなかったことは皆無である。

譲ってもらうのは当然なので礼はいわない

 あるいは、新幹線の車内の通路でだれかとすれ違うとき。これも今年になってからのことだが、通路は狭いので、筆者はあえてデッキまで下がって、向こうから若いカップルを通した。

 ところが、カップルの男女どちらも、譲ってもらうのは当然とばかりに礼をいわず、会釈すらせず、平然と通っていった。

 このときも筆者は驚き、周辺の何人かに話したのだが、だれもが日常的に同じ体験をしていた。譲ってもらうことを当然と受け止め、お礼をいう発想すらない人が増えているのではないか、という。

 筆者はこれについても、その後、観察してみた。すると、壮年の男性も、中年の女性も、少女と呼べるほどの若い女性も、みな筆者を下僕のように下がらせ、待たせたまま、大名行列のように頭も下げずに通っていくのだった。

 東海道新幹線にはかつて、1編成につき4人の車掌が乗っていたが、それが3人に削減され、2018年以降は2人にまで減らされている。ほかに社内サービスなどを行うパーサーが2人(または1人)乗っているが、かつてより乗員は少ない。だから、ほかの乗客のことで相談や苦情をいいたくても、告げる相手がなかなかつかまらないのだ。

「相手への気遣い」ができない乗客が目に付くようになる一方、経営効率化や人出不足などを背景に、新幹線の人的サービスも縮小している。その結果、新幹線からは「おもてなし」の精神がどんどん減少している。このため悪い意味の相乗効果が生まれている、とでもいえばいいだろうか。乗客同士のちょっとした行き違いが解消されにくくなり、不愉快な気分を味わう機会が増えている。これが「おもてなし」の文化が根づいているとされるニッポンの、ひとつの現実である。

子供の欲求を満たす教育の弊害

 残念ながら、こうした傾向は今後、改善されることはないのではないだろうか。近年、「ほめて育てる教育」が急速に浸透したこともあり、教育現場にも家庭にも、子供の欲求を満たそうとする傾向が浸透しているからである。

 自己肯定感を育むためにも、子供の欲求をある程度満たすことには意味がある。だが、自分の欲求が満たされることに慣れすぎた子供は、他者の気持ちを考えられなくなってしまう。自分の欲求を満たすために、相手がしてくれたやさしさや労力に思いを致すこともできなくなってしまう。つまり、親が先回りして子供の欲求を叶えようとし、周囲に譲らせるようにすればするほど、子供は社会に出てからも、周囲が自分に配慮するのが当然、というゆがんだ意識をいだくようになる。

 この傾向は、教育現場や親が子供に過剰な「おもてなし」をしている、と言い換えることもできるだろう。しかし、こうして周囲から「おもてなし」を受けることに慣れるほど、子供たち自身は「おもてなし」の心遣い、すなわち「相手への気遣い」から遠ざかってしまうのだ。なんとも皮肉な話ではないか。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部