特攻前夜に“白い絹のマフラー”を贈り…「人間魚雷」隊員たちに母と慕われた女性 戦後も位牌に朝晩手を合わせ続けた生涯
【写真】約3万人の学生が行進「出陣学徒壮行会」…特攻隊員となった学生も多い
特攻隊員たちの母
1942(昭和17)年6月のミッドウェー海戦は、太平洋戦争における大きな転換点といわれる。この戦いに敗れた日本の戦況は日ごとに悪化し、ついには爆弾ごと相手に体当たりする特別攻撃隊(特攻隊)の導入に至った。人間が“魚雷の搭乗員”となる「回天」はその1種で、戦後には数多くの映画や小説、ドラマ、漫画などの題材となっている。
最初に訓練基地が設けられたのは、山口県周南市の徳山湾に浮かぶ大津島。当時の関連施設が多く残され、回天記念館とともに現在は平和教育の重要拠点である。訓練中に短い休暇を得た隊員たちは島から陸に戻り、徳山(現在は合併により周南市)の街でひとときを過ごした。

シリーズ「週刊新潮が伝えた戦争」の今回は、この徳山の高級割烹で隊員たちから「お母さん」と慕われた仲居、倉重アサコさんに焦点を当てる。出撃前夜の隊員たちに白いマフラーを贈り、終戦後は隊員たちの位牌に朝晩手を合わせていたという倉重さん。「週刊新潮」の長寿連載「墓碑銘」でその生涯を振り返る。
(以下、1985年3月7日号掲載「墓碑銘」を再編集しました。文中の地名等は掲載当時のものです)
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必死必殺の兵器
太平洋戦争末期の1943(昭和18)年ごろから、何人かの若い海軍士官が“必死必殺の兵器”として“人間魚雷”の開発を考えていた。爆装した魚雷を操縦して、敵艦に体当たりするという特攻兵器である。
海軍中枢では当初これを却下していた。しかし、タラワ、マキン両島が奪取され、トラック島が空襲で壊滅するなど南方防衛線の確保がむずかしくなるに及んで、ついに1944(昭和19)年2月、2人の海軍士官が設計した人間魚雷の試作が始められることになった。
7月末に試作兵器が完成し、テストの結果、正式に採用されて「回天」と命名。九三魚雷の先端に操縦席と1.6トンのTNT炸薬(さくやく)を装備したもので、全長14.7メートル、直径1メートル、重量8トン、耐圧深度80メートル。上げ下げ自由な約1メートルの潜望鏡も備えていて、最大速力3ノットの性能であった。
回天作戦の主体となったのは第六艦隊で、訓練基地は山口県・徳山湾内の大津島が選ばれた(編集部注:後に山口県の光、平尾、大分県の大神にも設置された)。隊員は各地の航空隊などから募集され、兵学校出身士官、予備学生、予科練生、一般下士官など千数百名が入隊した。
昔のお母さんという感じの女性
1944(昭和19)年9月、“死ぬための猛訓練”が始まったが、その若い隊員たちが、わずかな休暇を楽しみ、また特攻出撃前夜の別離の宴席を持ったのが、徳山市内の高級割烹料亭「松政」だった。
そこには、「お重さん」と皆に呼ばれる名物仲居の倉重アサコさんがいた。
かつて第六艦隊の水雷参謀で『人間魚雷―特攻兵器「回天」と若人たち』(新潮社刊)の著者でもある鳥巣建之助氏によると、
「そのころの彼女は、丸顔ででっぷりとして本当に昔のお母さんという感じの女性だった」
彼女は山口県美祢郡美東町の農家の長女として生まれ、酒飲みの父親が家財を蕩尽(とうじん)したため、尋常小学校を出ると「松政」で奉公することになった。やがて結婚して一度は辞めたのだが、夫が病死したため、1940(昭和15)年、31歳のときにまた「松政」に戻った。
「松政」は、海軍士官たちから愛用されていたが、「さっぱりした性格のお重さん」は特に可愛がられて、山本五十六大将(死後に元帥)、南雲忠一中将(死後に大将)らの書もいくつかもらっている。
特攻隊員に贈った白い絹のマフラー
1944(昭和19)年11月、板倉光馬少佐(当時、回天隊員の訓練・教育担当)が「松政」に来て、「60人くらいでスキ焼会をやりたいか世話をしてくれ」といったのが、お重さんと「回天」との付き合いの始まりだった。
「物資のない時代だったが、彼女は近所をかけ回って七輪、炭その他をかき集め、雨戸をテーブルの代わりにして会を開いた」(鳥巣氏)
これが緑で、若い隊員が遊びに来るようになり、特に地方出身の若い予科練生たちは、彼女のことを「お母さん、お母さん」と呼んで甘えていた。
「回天」の第1回出撃は1944(昭和19)年11月8日。3隻の潜水艦に搭載された4基の「回天」は20日、ウルシー環礁(西太平洋、カロリン諸島西部)に突入、2万3000トンのタンカー撃沈の戦果をあげた。このとき特攻隊員たちは、出撃前夜の壮行会で、お重さんから贈られた白い絹のマフラーを巻いていたのだった。
以来、彼女は隊員たちにマフラーを贈り続けることになる。食料も繊維製品も極度に不足していた時代に、白い絹を探し出すことは至難に近いことだったが、彼女は不思議にどこからか探してきたという。
「回天は私の一生です」
結局、回天特別攻撃隊は終戦までに戦死86名、殉職15名、さらに自決2名を数えて昭和20年8月15日に解散した。
しかし、お重さんにとっての「回天」は終わらなかった。住み込んでいた「松政」の居間に隊員たちの位牌をまつり、朝晩手を合わせ、人には「回天は私の一生です」と語っていた。
1957(昭和32)年、出光興産徳山精油所が完成したとき「松政」で祝宴が開かれ、出席した当時の社長、出光佐三(さぞう)氏が彼女から「回天」との因縁を聞かされて感銘を受け、大津島の回天碑、回天記念館の建設に全面協力したこともあった。
1971(昭和46)年7月「松政」は店を閉めることになり、お重さんは故郷の村に帰って倉重アサコとして、養子の覚(さとる)さん、美代子さん夫婦と暮らすことになったが、毎年11月の大津島の慰霊祭に欠かさず出席し、かつての隊員と会うことを何よりの楽しみとして暮らしていた。上京してテレビで昔話を語ったこともあれば、「回天の母お重さん」とレコードで歌われもした。
高血圧の彼女は1984(昭和59)年6月に初めて倒れて、意識不明となった。
「ウソのように回復しました」(美代子さん)
が、1985(昭和60)年2月9日にまた倒れ、意識不明のまま同月22日に78歳で息を引き取った。葬儀には旧隊員など約200人が参列、「回天を一生とした女性」の冥福を祈った。
デイリー新潮編集部
