松嶋尚美さん

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 数々のバラエティ番組や情報番組で活躍するタレント・松嶋尚美さん(54)は、4年7カ月間同居し介護した実母・みよ子さんを7月12日に見送った。満89歳だった。シングルマザーとして、自身と妹の2人姉妹を女手ひとつで育ててくれた母親への思いは強く、お別れによる悲しさと寂しさが身にしみた。そんな思いのなか、介護中にあった1度だけの母とのケンカ、生前の母との思い出や最期の別れ、そして母を看取ったあとの自身の心境の変化などについて明かした──。【前後編の後編。前編から読む

【写真を見る】松嶋さんと実母・みよ子さん(89)のツーショット、子どもたちとの微笑ましい日常

バンド活動をやめた夫

 母との突然の同居で、フラストレーションがあったのは、旦那やったと思います。旦那は私が母とリビングに並んで寝て、夜中に15分おきとか1時間おきに何度も起きてトイレに連れて行ってたら、朝5時に起きてきて「替わるわ」って。仕事も「オレがやめて、お母さんのことをやる」ってバンド活動をやめてくれたんです。でも、私がいない間に揉めたことがあったみたいで。2人とも何があったか教えてくれないから、原因はわからないままなんですけど、旦那は自分の親と比べてみたら「同じやな」と思ったみたいで、すぐに仲直りしていました。

 私も1回だけ、母にキレてしまったことがあります。風呂上がりに母が自分で身体を拭いてくれないから、「ちょっとぐらい努力してよ!」と足元にタオルをバーンッ! と投げてしまったんです。母も「無理や!」「親に対して何や!」と怒って。でも、言い合いながら、私、もう後悔してるんですよ。あとで余計に優しくなりました(笑)。

 私の介護のプレッシャーといえば、母がデイサービスから帰る時間までには帰宅しないといけない、留守にはできないから泊まりの仕事は入れない、ということぐらい。それはマイナス面かもしれないけど、それより、母を連れて街へ出れば、車椅子の押し方を教えてくれる人がいたり、坂道で子どもたちが一緒に押してくれたり。優しさにたくさん出会うことができた日々だったんです。

「母との思い出」

 振り返ると母は口は悪いけど、昔からホンマに優しい人でした。子どもがやりたい、と言ったことは全部OK。私にも妹にも「やりたかったら、何でもやり」って。私の芸能活動についても、反対も何もなかった。東京に来てイヤなことがあって電話しても、「歯をくいしばってがんばれ」じゃなくて、「いつでも帰ってきたらええねん」って。意地の悪いことをしなかったら、悪い人生にはならんから大丈夫、って。気楽に考える人でしたね。私の子育て? 私は違うかな(笑)。子どもらが心配で、つい「アカン!」って言っちゃうから。母はすごかったな、と自分が子育てするようになってから思いました。

「何でもやり」の母でも、「内緒ごとはやめて」とだけは言われていました。私も妹も良いことも悪いことも起こるやろうけど、ほかから「尚美ちゃん、こんな悪いことあったらしいよ」って聞かされて初めて知るのはイヤ、せめて「ああ、知ってる。最悪や」と返したい、と。だから、「怒られるかもしれん、というときでも、覚悟して何でも全部言ってほしい」と。几帳面で、キレイ好きでもありました。

 そんなお母さんやったから、私も妹も母のことが大好き。ウチは母子家庭で、母は昼も夜も働いて忙しかったのに、年に数回、近鉄あやめ池遊園地(奈良市)に連れて行ってくれたんです。遊園地へ向かう電車の中で、母の右に座るか、左に座るか、妹と取り合いしてたことを思い出します。遊園地の中でのことは覚えてないのに(笑)。

 学校帰りに母の職場へ行って宿題したり、妹も来たら3人で一緒に家に帰ったり。そういう"日常"が今、頭に浮かびます。母が亡くなった後、妹の入院する病院へ行って母が亡くなった報告をしたら、妹はウワーッて泣いて取り乱して……。「めっちゃ大変な闘病してたから、やっとゆっくり寝られるようになったんや、と思ってあげよう」と慰め合いました。母とケンカばかりやった姪は、葬儀までの1週間、遺体の安置所から離れず、お線香をあげて、葬儀のときは立っていられないほど泣いていました。

「今日明日だと覚悟してほしい」

 母の最期についてもお話ししますね。去年12月に入院してからは、SLE (全身性エリテマトーデス)という免疫の病気のせいで免疫力が落ち、コロナにも罹るし、全身の状態が悪くなっていきました。"あっちを立てれば、こっちが立たず"になって、点滴で入れる水分ひとつとっても、先生(医者)は調整に苦労していました。

 母もしんどそうでだんだん衰弱し、次第に目を開けなくなっていきました。個室のベッドで眠る母の横で、娘はなんとか目を開けてもらおうと、そのときお祭りのために練習していた "よさこい"を「おばあちゃん、見て! 見て!」と言いながら踊ったんです。そうしたら、片目を一瞬開けたんですよ! 目を開けなくなっても、耳は聞こえているそうですね。母は一生懸命、見ようとしてくれたんやと思います。

 目が開かなくなって1か月ほどしたとき、病院から「おしっこが出なくなりました。今日明日だと覚悟してほしい」と電話があり、私は泊まりで付き添うつもりで病院へ。しばらくすると、母の心電図モニターから異常音が……。ナースさんが3人ババッと駆けつけて「心臓が痙攣を始めました。このまま逝くと思います」と。子どもらも駆けつけて「おばあちゃん、アカン!」「目開けて!」ってすごい勢いでみんなで声がけしました。そうしたら、いったん持ち直し、夜中になってたんで子どもらと旦那は待合室とかで寝て、私は母の手を握りながら、今まであんなことあったな、こんなことあったな、と1時間ぐらい話しかけました。そのうちにウトウトと……。

 目が覚めたら、心電図モニターの値が落ち着いていたので、病院の建物の外へ出て一休み。ところが、病室に戻ったら、その10分ほどの間にガタッと数値が落ちていて。母はそのまま家族全員に見守られながら息を引き取りました。朝6時4分。みんなワンワン泣いて「よう東京来てくれたね。ありがとう」「最高のおばあちゃんだよ」って。

 私は子どもらのトラウマにならんように、「おばあちゃんな、多分ずっとみんなに起こされて、死にたくても死なれへん状態やったんよ。だからみんながおれへん時に『チャンス』と思って気を抜いたのかなって思うようにしよう」って笑い話にしました。

母の他界で変わった子供たち

 この4年7か月、母と一緒の時間を過ごせてホンマに良かった。私は20歳で実家を出て、21、22歳で東京へ来たから、大人になってからの母との思い出はほとんどなかったんです。だから、子どもら(孫)と家族ならではの、普通の生活をさせてあげられて良かった。もしずっと妹に任せきりにしてたら、これも、あれもしてあげれば良かった、と大きな後悔と寂しさが残って、それに押しつぶされて、私は今ごろ病気になってたと思います。

 あと、私は将来、ポックリがいいな、と思っていたけど、それだと家族ら周りの人は心の準備ができないから、自分はしんどくても闘病して徐々に……というほうがいいのかもしれない、と思うようになりました。そのほうが周りの人のショックを和らげられる。

 それでも、子どもらは変わりました。私と旦那に「人間ドックを受診して」とか、尿でがんのリスクがわかる検査のCMが流れるたびに「これ受けて」とうるさくて。それだけ、子どもらにとってもショックやったということですね。母が亡くなって間もない今、私たち家族はまだ悲しすぎて思い出に蓋をした状態です。落ち着いたらその蓋を開けて、少しずつ思い出話をしながら母を偲びたいと思っています。

(了。前編から読む)

取材・文/中野裕子(ジャーナリスト) 撮影/山口比佐夫
スタイリスト/伊藤紫 ヘアメイク/上田実穂