プロとして、こだわりを持ち続けた

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「常に停滞を嫌い、異端児と時に言われようとも独自のスタイルを貫き通してきた」(公式HPより)東京ヴェルディの源流を探るべく、8人のレジェンドへインタビューした海老原一哉氏の『緑の血脈 東京ヴェルディ 異端の源流』(彩図社)には興味深いエピソードが満載だ。1969年に「読売サッカークラブ」として誕生、80年代は「常勝軍団」、Jリーグ発足後は「国内最強のクラブチーム」として君臨してきたクラブルーツを知る北澤豪氏のインタビューである(以下、引用は同書より。前後編の後編)。

【写真を見る】北澤はじめ主力選手が振り返る「Jリーグ元年」

Jリーグが発足して

〈1993年にJリーグが発足すると、サッカーが日本列島を席巻した。

プロとして、こだわりを持ち続けた

 国立競技場で行われたヴェルディ川崎と横浜マリノスの開幕戦は、テレビの視聴率が32%、瞬間風速では49%に達した。Jリーガーが身につけていたミサンガは、当時の若者たちのファッションアイテムとなった。当時のCMの年間契約金では、カズこと三浦知良が、プロ野球界のレジェンドである長嶋茂雄と並んで5000万以上(推定)と言われ、日本のスポーツ関係者としてはトップであった。

 北澤も1994年にベストジーニスト(協議会選出部門)に選出されている。

「プロとしてサッカーに注目してもらうために、芸能の方たちと横並びにしてもらうってすごく大切なこと。今までスポーツ界が出ていかなかった場所にも行かなくちゃって思いがあった。そもそも僕らは読売サッカークラブの頃からプロ志向だったから、どう見られるかは意識をしていたんだ。だから突然、何かを変えたってことはないんだよね。もともと愚直にプレーするだけでいいとは思ってなかったし。読売クラブの頃から外国車に乗っている選手もいてね。サッカーでもここまで稼ぐことができるんだぞって示したいって意味もあったと思う」

 注目が集まる舞台に足を運ぶことは、ヴェルディの選手たちの責任でもあると考えていた。日本のサッカー界のためにもやらなければいけないことだった。

 ちなみに、同年に一般選出部門でベストジーニストに選ばれたのはSMAP(当時)の木村拓哉である。

「木村君もサッカーを結構見に来てくれていたんだよ。2002年の日韓共催のワールドカップも隣で観戦したしね。そうやって他の分野の方にサッカーに興味を持ってもらったり、僕も芸能のエンターテインメントに共感して仲良くなれたことって、お互いの業界の発展のためにも本当に大事なことだったと思っている」

 当時、Jリーガーはプロ野球選手と比べられることが多かった。

 パンチパーマに金のネックレスがトレードマークとされていたプロ野球選手に比べて、Jリーガーたちの若々しく華やかな雰囲気は注目の的となった。

 実際の私生活は、どうだったのか。

 長髪姿の北澤が繁華街で羽を伸ばせば、すぐにファンに囲まれてしまっただろう。

「ただね、実際は週に2試合、それに練習もあって本当に疲れていた。僕らが出歩いていたイメージがあるかもしれないけど、実際にそんなことはあんまりなかった。ヴェルディは練習でも手を抜くともう使われなくなっちゃうチームだったからね」〉

待遇面でも

〈ヴェルディが牽引したことに、サッカー界の待遇面がある。

 突然、プロ化となったチームでは、どの程度の金額を選手たちに提示すればいいのか、判断ができない。そこで参考にしたのが、ヴェルディであった。

「サッカーを見て、選手の年俸を査定できる人間がすでにヴェルディにはいた。それは当時の時代背景を考えればすごいことだよね。他のクラブにはそんな仕事ができる人材はいなかった。最初の3年くらいは大変だったと思うよ」

 ヴェルディの中でも特に待遇面の改善に大きな影響を及ぼした選手として、カズの名前を北澤は挙げる。

「ブラジルのプロサッカークラブはこうだったよってことを、しっかりと説明してくれていた。それはピッチの上でプレーで表現をすることだけじゃなくて、考え方だったり、組織としての在り方だったり、あとはスタッフの配置だったりね。本当のプロの世界をスタッフ、選手などみんなに教えてくれた」

 カズこと三浦知良は静岡学園を中退してブラジルへサッカー留学。サントスFCなどでプロ選手として活躍をした。あらためて紹介する必要もないが、日本サッカー界のレジェンドである。

「日本にはサッカーのプロ文化がないってことをわかっていて、その前提で自分が来た意味を理解していたのがカズさん。プロの意識をクラブに根付かせる責任感を強く持っていたね」

 カズが残した功績はあまりにも大きい。

「“プロ”とか“サッカー”を全然知らない人にも説明をしなくちゃいけない。でもおれが話してもいまいち話が噛み合わないし、相手にも軽く見られてしまうところがある。そんな時に実際にブラジルでプロとしてプレーをした経験があるカズさんが話せば説得力が違うんだよね。カズさんが丁寧に説明をしてくれると、知識のなかった人たちも真剣に耳を傾けてくれた」〉

日本にとって初のW杯

〈1998年のフランスワールドカップの直前。カズと北澤は登録メンバーに選ばれず、イタリアを経由して成田空港に戻ってきた。

 空港内をカズの後ろから歩く北澤は、サングラスをかけていても憮然としていることは、容易に見て取ることができた。そして会見でカズが「魂は置いてきた」と語る姿は多くのサッカーファンの記憶に残っている。

 当時のニュース映像では、ヴェルディのチームメイトである柱谷哲二やラモスが、カズと北澤が落選したことに、とにかく激怒している姿も流れた。

 帰国後、ヴェルディの雰囲気はどうだったのか。

「みんな、とにかくボロクソに岡田(武史)さんの文句を言っていましたよ」

 少し上を見上げながら、北澤は当時を思い出す。

「そもそもね、本当はテツさん(柱谷)だってラモスさんだって、ワールドカップに行きたかったはずだよ。だから、どこかでその夢をカズさんやおれに託していたところもあったと思うんだよね。直接、聞いたわけではないんだけど。もちろん、おれもそんな思いを背負って行っていたから」

 1993年、アメリカワールドカップのアジア最終予選。最終戦でイラクと戦った日本は後半ロスタイムに点を決められ、ワールドカップに出場することはできなかった。世に言うドーハの悲劇である。この時に、日本代表のキャプテンが柱谷で、中心選手として背番号10を背負っていたのがラモスだ。北澤も日本代表として、ベンチでこのシーンを見届けている。北澤の目にはきっと、柱谷とラモスがピッチに座り込んで立てなくなっている姿が焼き付いているはずだ。日本代表としてだけでなく、ヴェルディのチームメイトでもあった北澤は、彼らとの関係性も特別に強かっただろう。だからこそ彼らの夢も背負って自分がワールドカップのピッチに立ちたいという思いを持ったはずだ。

 そして、北澤本人の悔しさも、察することは容易にできる。

 フランスワールドカップの最終予選は、最後まで突破できるかどうかの激戦であった。途中で加茂周監督が更迭され、岡田監督が就任。勝てば出場となるイラン戦では、北澤もカズも先発メンバーとして出場している。2人にはきっと、日本のワールドカップ初出場に、少なからず自分たちが貢献したという自負もあったはずだ。

 そんな2人を直前に帰らせるということは、確かにリスペクトに欠けるものだったかもしれない。選ばないのであれば、それはもっと事前に決めるべきであっただろう。ただ、これは岡田監督個人への批判という簡単な話ではない。初めてワールドカップに出場した日本は、何もかもが未熟だった。未熟さゆえに生まれた悲劇であった。

「ただね、ヴェルディのチームメイトが何か丁寧に手を差し伸べてくれたわけでもないんだよ。むしろ、帰ってきてからは、見られているという感覚を持った。これからおれがどんな行動をするのかなってね」

 もし日本代表落選後にショックを引きずり、そのまま腐ってしまうようであれば、きっと柱谷やラモスからは、厳しい言葉を掛けられることになったのでないかと、北澤は想像する。

 ただ、北澤はそんなぬるい選手ではなかった。

 日本代表落選後もヴェルディの中心選手として、2002年の現役引退まで、クラブを引っ張り、プロのサッカー選手を全うした。

「結局さあ、弱った人間って自分で戻ってくるしかないんだよ。だから見守ってくれていたんだと思う」

 なぐさめあうだけの、ただの仲良し集団ではない。

 その何歩も先の人間関係を築けていたのが、当時のヴェルディだった。

「プロの世界って、おれの背中を見てついてこいって、教え合わないというイメージがあるかもしれないけど、そんなわけのわからない教えはなかった。いろんなことを共有して、それぞれの経験談を話し合ったりした。でもね、だからといって、寄り添いすぎない関係でもあった」

 クラブを説明する上で「ファミリー」という言葉を使う。

「本当のファミリー感があるクラブなんだよね。誰かが困っていると家族のように心配をしてくれるところがあるんだ。でも、子育てをする親のように少し様子をみて、自分で頑張らなきゃいけない時には静かに見守ってくれることもある」

 つかみかけた夢の舞台にあと一歩で立つことができなかった北澤に、ファミリーは無言のエールを贈っていたのだろう〉

 同書では他に、小見幸隆、都並敏史、松木安太郎、柱谷哲二、平本一樹、加納広明(全力さん)、中村忠の各氏が東京ヴェルディの原点「読売サッカークラブ」について語っている。異端の源流とチームの歴史を知る、格好の1冊である。

【前編は「高校時代のあだ名は『ヨミウリ』…元日本代表『北澤豪』が明かす読売クラブのジュニアユース時代『大人が中学生に思いっきり蟹挟みをしてくる。ただそれが超楽しかった』」】

デイリー新潮編集部