「右脚があらぬ方向に180度ねじれて…」バイク事故で脚を切断…元競泳選手の義足モデル(28)を襲った、人生を一変させた事故
現在、動画クリエイター、モデル、会社員として活動する川原渓青(通称KawaK:かわけい)さん(28)は、競泳選手でもあった大学時代、バイク事故によるけがで右膝下を失った。手術から半年足らずでパラ競泳を開始、日本記録を更新。競技引退後は、義足を1つのツールとして、さまざまな形で自分自身を表現している。そんなKawaKさんに3回にわたりインタビューした。第1回は、人生を一変させた事故と、その後のリハビリ、義足との出会いについてうかがった。(全3回の1本目)
【画像】「右脚があらぬ方向に180度ねじれて…」バイク事故で脚を切断、義足になったかわけいさんの姿を見る

川原渓青(通称KawaK:かわけい)さん(28) ©︎文藝春秋
◆
高校も大学もスポーツ推薦 競泳に導かれた学生生活
――インフルエンサー、モデル、会社員と、さまざまな活動をされていますが、ご自身では今、一番軸になっているのはどれですか?
川原渓青さん(以下、「かわけい」) 一番は「動画クリエイター」です。もともとインフルエンサーというほど、人にいろんなことを広めたいという気持ちはなくて。動画を作り始めた動機は「義足って普通だよ」っていうのを知ってもらえれば、というところなので。
――以前は競泳選手だったそうですね。
かわけい 小学生の時に家族でバリ島に旅行に行ったときに、プールで溺れて。それで母親からスイミングに行かされて“ブクブクパー”から始めました。中学に入ってできる部活が「水泳部しかないな〜」と泣く泣く入ったら、そこから伸びて、中3ではキャプテンになって、スポーツ推薦で高校に入り……そこから全国大会行って、高3では県で個人種目入賞したので、国士舘大学もスポーツ推薦で入って。
――じゃあ学生時代は、水泳一本という感じですね。
かわけい でも実は、水泳はそんなに好きじゃなくて。伸びたというか、できることがそれしかなかったのかもしれないですね。勉強がめっちゃ得意かというと別にそうでもないし、やっぱりスポーツが自分の取り柄だったんですよね。コーチに恵まれていたということもありました。
――出身はどちらですか?
かわけい 兵庫県の姫路です。高校まで地元で過ごし、東京に来て10年くらいですね。
――大学では何を学ばれたんでしょうか?
かわけい 大学はスポーツ工学系を学び、大学院では障がいの水泳の体の動きについて研究していました。
――以前も今も、バイクに乗るのがお好きだそうですね。
かわけい めちゃめちゃ好きです。大学生だった当時は、水泳部の寮に入ってて、そこから駅までが遠いので、バイクで行くしかないからと免許取って。最初は交通手段として使ってましたけど、乗ってるうちにどんどん好きになって、ツーリングしたりして、友だちができたきっかけにもなってました。
「脚残ったわ」「ないよ」…バイク事故で失った右脚
――事故に遭ったのも、寮からの移動中だったとか。
かわけい 大学3年生の1月、もう4年生に上がる手前でテストも近いし、駅の近くのカフェで勉強しようとバイクで出かけました。そのときに車に追突されて、30秒ぐらい記憶が飛んで。「大丈夫ですか」って肩をめっちゃ叩いてくれた人がいて、その声で気がつきました。
前にも一度、雨の日にバイクでこけて親指を骨折していたんで「また事故った!」と焦って「大丈夫です」と立ち上がろうと思ったんです。大丈夫なフリしないと、その人にも心配かけるからって。で、立ち上がろうとしたときに、そのまま右に傾いて……「あれ?」と思ってパッと見たら、自分の脚がぐちゃぐちゃに潰れてて。
そこからはパニックというか、何を言ってるのかも自分でわからなくなっちゃって。とっさに「親にだけは連絡しないと!」と携帯取ってLINEで親に電話したけど「脚が! 脚が!」って叫んでるだけだったんで、肩を叩いてくれていた人が僕の手から携帯取って、母に事情を説明してくださって、その人に救急車も呼んでもらって。そのときには脚がこう、あらぬ方向にねじれてて。
――180度くらい? そんなに?
かわけい そうです。こうねじれて。救急隊が来たけど、それだとタンカに乗せられない状態なので、ねじれてた脚をグイッとひねって戻すのを見ました。それが人生で一番痛かった経験かもしれません。
アスファルトに血が滲んでいた光景も見ました。気を失ってれば楽やったかもしれないけれど「死ぬって一瞬やな」「ここで目を閉じたら、多分、絶対戻れへん……」と思って。だから手術台でも、ほんまに安心できるタイミングまで「絶対に目つぶらん!」と、できるだけ瞬きせずに、救急車の中でもずっと目を開けてました。
――手術が終わって、目覚めたのは当日ですか?
かわけい 次の日の朝の10時ぐらいにICUで目覚めました。人工呼吸器が喉まで入ってて、喋れない状態で。ホワイトボードを渡されて、筆談でやり取りしてたんですけど。父や母、姉も家族全員、姫路から来てくれていて「起きた、起きた!」って。そのとき自分は「心配させたくない」が何よりもあって。
布団被ってるから、自分からしたら脚の状態がどうなってるのか分からないけど、幻肢痛っていう痛みで感覚を感じたので、ホワイトボードに「脚残ったわ」って書いて見せたんです。そうしたら母がポロポロ泣きながら「ないよ」って言って。父親も泣いて。
親にはずっと感謝してて、いつか親孝行しようとは思ってたけど……初めて自分の体について心の中で親に謝ったというか。当時21歳で、そのときはシンプルに悔しかったですね。頭はそんなに良くなかったけど、スポーツは得意だった。でも、脚がなくなったことで自分の得意なものすら奪われた、ってそのときは思ったから。病室で「自分にこれから何ができるんだろう」と、ずっと考えてましたね。
初めての義足 自ら課したスパルタ式のリハビリ
――退院できたのはいつ頃ですか。
かわけい 結局、半年間入院しました。2ヶ月は救急で搬送された病院にいて、そこを退院してからは、義足を作る製作所とリハビリ施設が一緒になっている医療施設に4ヶ月くらいいました。
――リハビリはどんな感じでしたか?
かわけい そこでは脚を切断した理由が糖尿病という年配の方ばかりで、リハビリもマイペース。でも自分は「すぐに元の生活に戻りたい」という気持ちが強くて、義足にまだ慣れていない状況だったけど、1日に1万5、6000歩くらい歩いていましたね。ひたすら階段を登り降りする練習をして、エスカレーターに乗るのも怖かったのでその練習もして。できることから一歩一歩。
――自らスパルタ式のリハビリを課したんですね。当時の義足は、今使っているものとは違いますか?
かわけい 違いますね。切断したときって、もう、ものすごく浮腫むんですよ。膝がどこにあるかも分からないくらい脚がパンパンに腫れてて。それに合わせて義足を作っているので、やっぱり1年2年経っていくと、だんだん縮んで落ち着くから、サイズが変わります。
切断した脚はどうなった?
――今、何代目の義足ですか?
かわけい 3代目ぐらい。今、次のを作ろうとしているところです。
――義足って充電して使うんですか?
かわけい 充電式もありますね。義足というのは、膝下の切断と膝上の切断で、全然違うものになるんです。膝の上の切断だと、充電式の義足がすごく性能が良くて歩きやすいんですけど、僕は膝下です。
関節ごとにパーツが分かれるんですけど、自分はかかとと足首の関節がなくて、そこの機械部品はめちゃくちゃ重たいし、性能もイマイチで壊れやすくて。小走りもできないので、充電式の義足は全く使っていないです。
――保険適用されていくらぐらいですか?
かわけい 保険適用されたら全額免除ですけど難しいのが、国の補助なんです。自治体によって給付される義足のグレードが違うんですよ。東京都が一番厳しいです。「この義足」って、決められて支給されるけど、全く歩けない義足だったりもします。
――壊れた場合は?
かわけい 耐用年数みたいなのがあって、大体3年に1個替えるんですけど、それまでに壊れたら、申請して替えるのは難しかったりもしますね。そのまま使えれば使うし。自分はもう4、5年くらい経ってますね。
――切断した脚はどうなったんですか?
かわけい 分かんないんですよね。聞いたんです。何回も聞いて。手術した後の脚の写真も、絶対撮影してるはずなんです。お医者さんもメンタルブレイクしないようにってことなのか「見せて欲しい」って言っても写真は一切くれなくて。術後、脚がどうなったのかも結局分からずじまいのまま。火葬する人もいるんですけど、自分の場合はどこに行ったか、全く分からないんです。
本来、就活するタイミングなのに“歩く練習”
――「これができなくなったことがつらかった」ということを強いてあげるとしたら?
かわけい 当時だと就活ですね。3年生の終わりだったので、大学の一番の集大成というか、いい企業に入るっていう、就活のタイミングに、幼稚園に行く子でもできる、歩く練習をしていたので。それが何よりもきつかったかな。
――卒業は問題なく?
かわけい 卒業はしました、ちゃんと。その前に単位をほぼ取っていて、あとは卒業論文と数単位だけだったので。
――就活はどのようなところを考えていましたか?
かわけい スターバックスでもバイトしていてお酒も好きだったので、食品メーカーや商社、あとは消防士もちょっと視野に入れていました。高校の頃は商業科だったので、大学に行く人がほとんどいなくて、どっちかというとそのまま就職する人が多かった。自分もそのまま消防士になろうと思っていたんですけど、水泳の推薦で大学が決まったので「絶対行った方がいい」と言われて、行って。
競技用義足との出会い 思わぬCMデビュー
――パラ陸上で見かける、バネみたいな義足も使ったことはありますか?
かわけい その義足は“ブレード”というんですが、退院してすぐに開催されたイベントで、初めて体験しました。そのとき東京ガスが来ていて、CM出演が決まったんです。まだ脚が慣れてない状態だったので、練習してから撮影しました。
――それがデビューになるんですか?
かわけい デビューといえば、デビューかもしれないですけど、当時はまだTikTokも発信してなかったんで、僕のことは誰にも知られてなかったんじゃないかな。
――ブレードは義足ユーザーなら誰でも体験できるんですか?
かわけい 義足製作所に、国家資格を持った義肢装具士がいるんですけど、その人が主宰している義足の人たちで走ろう、という趣旨の「スタートライン」という団体に入ったので、ブレードを履くイベントに参加することができました。
ブレードは走る用の義足だから、原則として趣味の範疇とされていて、保険の適用外。百何十万円もするので、すぐ買えるという人はほとんどいない。だから、まずは体験できるイベントに行って「それでも走りたい!」と望んだ人が購入します。
僕の場合は、東京ガスのCM撮影のためだったので、広告費の部分で作ってもらえました。
――ラッキーでしたね。ブレードは今でも使えるんですか?
かわけい 使えますね。でもブレードの義足でスクワットをやったら、部品のネジがバーンって破裂してしまって、ガクンとなって、大けがをして。今はやらないようにしてますけど、当時はパラ水泳の競技をやってたんで、トレーニングのために使っていました。
◆
義足をつけて再び歩き始めたかわけいさんは、やがて競泳の世界へ戻り、東京パラリンピックを目指すまでになる。しかし、その先には思いもよらない転機が待っていた。
写真=細田忠/文藝春秋
<第2回へつづく>
〈「足をもう一本失わないと学ばないんですね」痛烈な中傷コメントも…脚を失った動画クリエイター(28)が「義足を見せる」と決めるまで〉へ続く
(市川 はるひ)
