母は小さく手を振った…1945年8月9日長崎、16歳の「わたくし96歳」母との最後の朝
8月9日の記憶を忘れないために
【葛西の滝野公園 #キャンドル・デモ に行ってきました。毎年集まってらっしゃる方達の中に、駆けつけてくれた私のフォロワーさん達が加わり、いつもと違う雰囲気になったようです。キャンドルとペンライトが一緒になったデモにちょっと胸が熱くなりました。色んな方と写真も沢山撮りました】
わたくし97歳(@Iam90yearsold)2026年8月6日のポスト
Xでこの投稿をしたのは、「わたくし97歳」のアカウント名で発信を続ける森田富美子さんだ。富美子さんはアカウント名通り、現在97歳になる。90歳でXを開設し、91歳から自らの長崎での原爆体験などについて積極的に発信するようになった。2025年6月、96歳のときに娘の森田京子さんと共著で『わたくし96歳#戦争反対』を出版している。
2026年に入ってからは、SNSでの発信にとどまらず、国会議事堂前をはじめ、都内で行われているデモに複数参加。広島原爆の日である8月6日も、東京都江戸川区中葛西の滝野公園で行われた平和を願うキャンドルデモに富美子さんは参加した。猛暑の中、97歳でのデモ参加は正直、身体にもこたえる部分はあるに違いない。それでも富美子さんは「戦争反対」「核兵器廃絶」「世界平和」の声をあげ、歩みを止めない。
そんな富美子さんの強い思いの背景には、1945年8月9日午前11時2分に長崎に投下された原爆での被爆経験がある。このとき富美子さんは16歳。両親と3人の弟を失っている。このあまりに凄絶な出来事を富美子さんは長い間、口にすることなく封印してきた。しかし、2020年8月9日、長崎平和祈念式典で当時の首相が、8月6日に広島で行った挨拶をまるでコピーしたような内容のスピーチを行い、富美子さんの怒りが爆発した。「真実を知らないから、知ろうとしないから、そんな挨拶しかできない」と、そこから「言いたいことは言わせていただく」と発言を続け、現在9.5万ものフォロワーがいる。
厚生労働省が7月に発表した被爆者健康手帳を持つ全国の被爆者数は、2026年3月時点で9万1105人、平均年齢は86.66歳だった。原爆の実相を伝える方は年々少なくなっている。だからこそ、富美子さんの8月9日の記憶は、今を生きる私たちにとっても忘れてはいけない、知るべき記憶でもある。
富美子さんの著書『わたくし96歳#戦争反対』から「第一章 8月9日、あの日(16歳)」の部分を抜粋して前後編でお届けする。
母は小さく手を振った
1945年(昭和20年)夏は、香焼島(こうやぎじま)にある川南造船の工場(川南工業香焼島造船所)に通っていた。松山町停留場(現・平和公園停留場)から路面電車で大波止(おおはと)まで行き、そこから船に乗って香焼島へ、家から工場までは1時間ほどだった。工場は8時に始まる。朝5時に起きて、6時前に電車に乗る。早朝の電車からは朝もやが晴れていく夏の風景が見えた。
そのころはもう靴もない時代で、工場へは下駄で通っていた。
「行ってきます」と言いながら玄関に行くと、あとから走ってきた1番目の弟(国民学校5年生)が、履こうとした私の下駄を横取りして履き、逃げるように飛び出していった。「また友だちとダクマ(川エビ)獲り。私はこれから工場に行かなければならないのに、それがわかっているはずなのに」そう思うと無性に腹が立った。「私は何を履いて行けばいいんだ」腹を立てながらも困った。
その時、「ほら、これを履いて行きなさい」と母が新しい下駄を足元に置いてくれた。赤い鼻緒の下駄だった。ヤミ物資でも手に入りにくい下駄を母は大切にしまってくれていたのかもしれない。しかし、新しい下駄は前坪も鼻緒も固く、それが私の苛立ちに拍車をかけ、いっそう機嫌を悪くさせた。
「これっきりの別れになるかもしれないから、さあ機嫌をなおして早く行きなさい」と母が穏やかに微笑んだ。「いつ何があるかわからないから」それでも黙って玄関を出る私に「プンプンしないで。これが最後かもしれないんだから」と母は念を押した。その言葉を背中で聞きながら歩き出した。70〜80メートルほど歩いて振り向くと母が門の外に立って見送っていた。母の視線を感じながら歩き、角を曲がる前に、もう一度振り向いた。母はやっぱりそのままの姿勢で家の前に立っていた。そして小さく手を振った。
角を右へ曲がり歩きながら、「これっきりの別れ」「これが最後かも」という母の言葉が急に胸に迫ってきた。あの時代の切羽詰まった感情から出た覚悟めいた思いを言葉にした母、そこに私は予感のようなものを感じていた。
「長崎が燃えとる!」誰かが叫んだ
川南の工場に着くと、いつも5〜6人の同級生たちとトンネル工場の中で待機だった。トンネル状の工場だが、機械が置いてあるだけで使われず、倉庫のような雰囲気だった。私たちはそこで、手持ち無沙汰の時間を無為に過ごしていた。
同級生らによれば、工場では工員たちだけでなく、旧制海星中学(現・海星高校)の生徒たち、私が通っていた鶴鳴高等女学校(現・長崎女子高等学校)の同級生、活水高等女学校(現・活水高等学校)の女学生などが汗まみれで作業していたようだ。特に男性は船の甲板など大きなものを造っていたらしい。
そんな中、トンネル工場の私たちは何もさせてもらえずの日々。しかし、そこは女学生、楽しく過ごす術を知っている。いつしか、おしゃべりをしたり、歌を歌ったり、ここでの5〜6人は随分と気楽で能天気な時間を過ごしていた。
その日、どういうわけか鼻血がドッと流れ出した。初めての経験だった。しかも止まらない。心配して集まった友だちが、首筋を叩いたり、小鼻を揉んだりしてくれた。
そんなときだった。ドーンと凄まじい爆音がしたかと思うと、猛烈な爆風で全員がトンネルの奥に向かって飛ばされるように押しやられ倒れ込んだ。あらゆる物が1ヵ所にグッと集められ固められたような感覚だった。それが11時2分だった。
いったい何事かと私たちは怯え動けなかった。ほどなくして、
「長崎駅が燃えとる!」
「長崎がやられた」
そう叫ぶ声が聞こえた。私たちはトンネルを飛び出し、すぐ横の丘に駆け上がった。
キノコ雲が見えた。それは、崩れかけ、緩み、広がり、黒く不気味に変化し始めていた。そして、まるで後光でもさしているかのように金色に光り輝いていた。
丘の上からは、駅を中心に燃えているように見えた。内心、我が家は無事だと思った。丘の上にどれくらいの時間いただろうか、やがて「船が出るぞ」という声が聞こえた。私は真っ先に丘を下って最初の船に乗った。船の中は汗ばんだ工員と男子生徒で、ぎゅうぎゅう詰めだった。一緒に乗り込んだ4〜5人の友だちと互いにしっかり手を繋ぎ合っていた。誰も何も言わなかった。船が出発した。揺れる船の中は異様な静けさだった。お昼を過ぎたばかりの時刻なのに海は、まるで夕暮れのような暗さだった。
船は大波止ではなく、大浦の松ヶ枝町桟橋(現・松が枝町)に着いた。乗っていた工員、男子生徒、女学生、全員が船を下り、蜘蛛の子を散らすように駆け出した。私は手を繋ぎ合っていた友だちと駅の方へ急いだ。しかし、20分ほど進んだあたりから空気が熱を帯びてきた。五島町まで行くと、いよいよ火勢が強く熱気で進めなくなった。そこにあった防火用水の水を桶で3杯、頭から被った。それでも熱過ぎて真っ直ぐ前へ進めない。
一旦、山の方に上がり、そこから北へ進むことにした。現在の長崎放送(NBC)あたりへ出て、墓所の間を上り、立山中腹にある農道に出た。ちょうどNHK長崎放送局の上あたりまで来た時、「ここから先へは行かない方がいい」と先に逃げてきた3〜4人の男性に止められ、そこの道端で朝を待つことになった。爆弾がどこに落ちたか、まだわからなかった。
道は死体と負傷者でいっぱいに
日が落ちると水を被って濡れた衣服が急激に冷え始め、凍えるような寒さが襲ってきた。そして夜になると負傷した人々が次から次へと上がって来た。その一人一人が信じられない姿だった。まだ黒ずんでいない大きな饅頭大の水ぶくれが顔や手足にできた人たち、顔がぱんぱんに腫れ上がっている人たち、その場で倒れる人たち、皆「駅の周辺でやられた」と言っていた。私たちは顔を上げることができず、ずっと俯いていた。私は寒さと不安で震えていた。
お腹が空いているわけではなかった。空いていたのかも知れなかった。私たちは持っている食べ物を出し合って食べ始めた。私は母が肩掛けの布袋に入れておいてくれた乾パンを出した。5センチくらいの大きな乾パンは水を被ったせいで湿気っていた。それでも私たちは大事に食べた。
明け方、おそらく5時半を回った頃、私は一人で歩き始めた。大きな建物である長崎医科大学附属医院(現・長崎大学病院)を目印にして進んだ。
誰もいない狭い農道は恐ろしく、不安でいっぱいになった。私の足も耐えられなくなっていた。すると、前方から大きな男の人が歩いて来るのが見えた。その人は、ずるりと剥けた全身の皮膚を、まるで着流しのようにだらんと引きっていた。その人を見た途端、何も感じなくなった。怖いとも思わず、当たり前のように、その人とすれ違った。
それから、ただひたすら農道を歩いた。人ひとり通らず、誰とも会わなかった。1時間ほど歩いただろうか。やっと人影が見えた。ゆっくり歩くその人影に向かって小走りになった。ゆるい坂と石段でできた細い道に出た。
そこは、死体と負傷者でいっぱいになっていた。農道ですれ違った男の人のように皮膚をだらんと引き摺っている人、髪がチリチリに燃えて赤 けの皮膚のまま呆然としている人、男か女かもわからない人、熱い地面に倒れている人、今思えば、身の毛もよだつような人、人、人。
「ここを下ったら、きっと」そう確信し、下り始めた。坂の両側に痛ましい状態の死体が折り重なっていた。ものすごい数だった。坂の上の方に家がある人たちが帰ろうとしていたのか、皆上の方を向いて倒れていた。その中から「水をください」と、か細い声が聞こえた。女の人がすがり付いてきた。「あとできっと持って来ます」どうすることもできず、そう口走り、逃げるように通り過ぎた。
どこからだろう、気がつくと同年輩の男の子としっかり手を繋いでいた。海星の生徒だったことは確かだが、それしかわからない。ただ黙って2人で下って行った。かなりの距離を下った。
坂を下り切ると、目の前の町はペッタンと平らになっていた。
「鹿児島に帰りたい」と女の子が言った
真っ直ぐ前に向かって歩いた。浜口町停留場(現・原爆資料館停留場)付近だった。「おねえさん」と呼ばれた。見ると、髪の毛全てが茶色く逆立ち、着ているものがボロボロの女の子が立っていた。見た途端、一瞬ぞっとした。その子が「◯◯です」と名乗った。通称まるハ工場(浜口町三菱長崎工業青年学校工場)に通っていた時、私を「おねえさん」と慕ってくれた14歳の女の子だった。まるハ工場には、鹿児島から14歳〜20代前半の女性たちが来ていた。その中でも一番若い子だった。
「鹿児島に帰りたい」女の子が言った。火傷や怪我はなかった。駅へ行ったら何とかなる、そう思った私は駅に行くように言い、その方角を指さした。自分のことでいっぱいだった私には、それがやっとだった。
浦上の松山グラウンドに着いた。爆風で全て飛ばされ、何もなかった。飛ばされた死体と瓦礫がグラウンドの端に寄っていた。そこからは見えないはずの駒場町(現・松山町)の我が家の方までがスポーンと見通せた。あたり一面あらゆるものが吹き飛ばされた焼け野原だった。死体さえも見当たらなかった。海星の生徒とはこのグラウンドで別れた。何か言葉を交わしたようにも思うが、記憶にない。
もう一度、駒場町の方を見た。やはり、町は影も形もなく、あるはずの町並みは全て無くなっていた。「ダメ」と思った。家のあたりから目を逸らし通り過ぎた。浦上川の向こうの油木町に駒場町住民用の横穴防空壕(油木大防空壕)があり、大きな空襲の時は皆そこに避難していた。家から500メートルだった。家族はそこにいるかも知れない。そう思い、そう願った。城山町に渡る簗橋(やなばし)には膨れ上がった死体が転がり、浦上川には水欲しさに川に下りたのか、数えきれないほどの死体が無惨に折り重なっていた
◇後編『「わたくし96歳」1945年8月9日長崎で、16歳の「わたくし」が見た家族の最期』では、原子爆弾が投下された直後の長崎の町を歩き、家族と再会する富美子さんの様子を引き続きお伝えする。

