「飯塚幸三は上級国民だから逮捕されない」は間違いだった…《池袋暴走事故》警視庁幹部が「自民党議員」に呼び出されても逮捕を見送った理由〉から続く

 2019年4月。母娘2人が死亡し10人が重軽傷を負った「池袋暴走事故」直後、世間では「飯塚幸三は上級国民だから逮捕されない」という怒りの声が爆発した。しかしその裏で、激しい批判とバッシングの矢面に立たされていたのは、事故を起こした本人ではなく、彼の家族だった。

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「上級国民は逮捕されなくて良いですね」――ネット上に実家住所や電話番号が晒され、鳴り止まない嫌がらせ電話。逃げ場のない絶望のなか、長男は警察の捜査に全面的に協力し、「これは完全に踏み間違いです。私が父親を説得します」と苦渋の決断を下すのだが……。

 長年取材を続けてきたTBSテレビ守田哲氏の新刊『池袋高齢者暴走事故 遺族と加害者家族の2060日』(文藝春秋)よりお届けする。(全3回の2回目/続きを読む)


実況見分に立ち会う飯塚氏(写真:時事通信社)

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懲罰としての「逮捕」の危うさ

 世論は「逮捕」を懲罰目的のように捉えていた。しかし、懲罰的な思想に偏ると、警視庁公安部による大川原化工機冤罪事件のように刑訴法の精神を逸脱した逮捕や、人質司法を目的とした長期勾留が起こる。

 東京地検の検事は池袋暴走事故の捜査を振り返り、警視庁に対してこう評した。

「逮捕したら二〇日間(刑訴法で定められた最長勾留期間)で、聴取などを全て終わらせる必要性があったが、在宅捜査で時間的余裕ができたため、捜査を十分に尽くせた」

 当時、捜査関係者は私に対し、意外な事実を話していた。

「実は、飯塚の長男は『逮捕してほしい』と話してたんだよ。脅迫とかの攻撃から家族を守るためには、それがベストだと考えたんだろうね。皮肉なもんだけど」

 では、捜査はどのように行われたのか。

 事故当日、交通捜査課長が会見で話した。「飯塚は『アクセルが戻らなくなった』と供述しているが、運転ミスの線が強い。メーカーの検査も必要だと考えている」

 警視庁は事故直後からアクセルとブレーキの踏み間違いを疑っていた。

 池袋暴走事故の捜査は、通常の事件事故とは異なっていた。事件事故は一般的に送検、起訴、裁判という手続きを辿り、警察は送検、検察は起訴と、それぞれの捜査機関が役割に応じて目標を掲げる。

 しかし、池袋暴走事故の場合、警視庁と東京地検は捜査の初期から強いタッグを組み、裁判で過失運転致死傷罪の法定刑の上限である禁錮七年(条文では「七年以下の拘禁刑若しくは禁錮又は百万円以下の罰金」)を求刑することを最重要目標として掲げていたという。実際に求刑をするのは検察官だが、その検察官が七年を求刑できるだけの十分な証拠を集めるべく捜査を進めたのだ。

「絶対に失敗できない」実況見分

 警視庁と地検は頻繁に会議を開き、時には深夜に及ぶことがあった。警視庁の捜査員は、地検の検事に対して「必死でやっているので七年で頼みますよ」というメッセージを送り、一方で検事は警視庁の捜査員に対して補充捜査の指示を繰り返した。遺族や被害者の無念を晴らすという動機もあったが、それほど世論からのプレッシャーも大きかった。

 飯塚は国立国際医療研究センター病院の東病棟七階の個室に入院していた。七階の救命救急センターは、東京都トップクラスの年間一万件以上の救急患者を扱っている。事故の翌日から飯塚の病室が取調室になった。警視庁は飯塚の記憶が鮮明なうちに、午後三時ごろから一時間ほどの任意の事情聴取を始めた。飯塚は体力が回復しておらず必死だった。夜になると事故のことを思い出して寝付けず、睡眠薬や精神安定剤を服用していた。

 また、飯塚の車の故障の有無を調べる実況見分を行うことも早々に決定した。実況見分は事故五日後の四月二四日午前一〇時、立川市の警視庁の多摩総合庁舎で行われることになった。

 参加者は、警視庁の捜査員や東京地検の検事のほか、トヨタの担当者。捜査員の間には絶対に失敗はできないという並々ならぬ緊張感が満ちていたという。

父親の代わりに矢面に立たされたのは…

 飯塚の代理として立ち会った長男は、開始前に衝撃を受けた。設置されていたホワイトボードに全被害者の年齢と性別、それぞれの怪我の状態が、目を背けたくなるような言葉で書かれていたからだ。報道から被害者の断片的な情報しか知らなかった長男は具体的な惨状を初めて知り、強い罪悪感を抱えながら実況見分を見守った。後に長男はこのことを意図的な圧力だったと考えたが、警視庁側は事故の概要を事務的に記していただけだったという。

 約一二時間に及んだ実況見分の結果、車は外観こそめちゃくちゃだが、主要な装置は正常だったことが判明した。アクセルやブレーキなどにも異常は確認できず、長男はこの結論を冷静に受け入れた。警視庁側が技術的な説明をすると「それは私も聞いたことがあります」などと話し、専門家レベルの理解力を持っていたという。ある捜査員は私の取材に対し、「長男は『一を聞いて十を知る』という感じだったね。加害者の家族で、こんな物わかりのいい人は今まで見たことがなかった。あの言葉がこちらの心理的な支えにもなった」と評した。

 長男は、捜査員に感謝を述べた。

「ここまで調べていただいてありがとうございます。これは完全に踏み間違いです。私が父親を説得します」

 多摩総合庁舎は第二の捜査拠点となっていた。この日とは別に、ごみ収集車、自転車三台、真菜さんと莉子ちゃんの衣服などの調査が行われた。実際の車両を使い、衝突時の位置関係や角度を細かく再現し、一見しただけでは気づかない傷を見つけ、事故の因果関係を明らかにしていった。

 入院中で身動きの取れない飯塚の代わりに、矢面に立ったのは長男だった。

 事故当日四月一九日の昼過ぎ、長男は地方出張中だった。会議に参加しているとき、父親から携帯電話に何度も着信があった。LINEで「緊急?」とメッセージを送ると、父親から再度電話がかかってきたので、会議を抜け出して電話に出た。

 父親から「アクセルが戻らなくなって、人をいっぱい轢いてしまった」と告げられ、電話を切ったあとはいても立ってもいられなくなった。しかし、「予定を早めても自分にできることはない」と言い聞かせ、もともと予約していた新幹線で戻ることにした。手の震えが止まらず、心臓の鼓動が聞こえるほど動悸が速くなっていった。会議の内容は全く頭に入らなかった。

 午後三時ごろになり、父親が自身のFacebookに家族写真を多数アップロードしていることを思い出し、震える指でアカウントを削除した。

 午後四時に会議が終わり、父親の事故を上司に報告して、一目散に東京に向かった。新幹線の車内でスマホを見て、事故がネット上で大騒ぎになっていることを知り、絶望した。こんな大きな事故とは思わなかった。再び動悸が速くなる。食欲もわかず、喉もカラカラだったが、何とか飲み物を口に含ませた。冷静になろうと自分に何度も言い聞かせ、「飯塚幸三」というアカウント名のTwitterも思い出し、削除した。

謎の匿名電話「上級国民は逮捕されなくて良いですね」

 父親の病室に辿り着いたのは午後一〇時すぎ。警察官から事故の状況と父親に監視がつくことを告げられ、自身も簡単な事情聴取を受けた。父親はまともに話せる状態ではなく、家族と合流して、実家に向かうことにした。日付が変わろうとしていた。

 実家の住所や電話番号がネット上で暴露されていることを把握していたので、周囲の目を気にしながらマンションに入った。しばらくすると、電話が鳴り、父親の知人かと思い受話器を上げた。何者かが「上級国民は逮捕されなくて良いですね」とだけ言い、電話を切った。

「これが未来永劫続くのか」

 同じような電話が次から次へとかかってきた。鳴り止まないので、やむなく電話線を壁から抜いた。

――まるで自分が事故を起こした当事者ではないか。これが未来永劫続くのか。

 地獄に突き落とされ、目の前が真っ暗になった。気づけば、他の家族とともに泣いていた。

 その後、夜が明けるのを待たず、長い距離を徒歩で帰宅した。逃げ場のない絶望感が次々と湧き上がる。

 「どう償えばよいのか」「会社に居場所はあるのか」。そして、「家族は暮らしていけるのか」。どこをどうやって帰ったのか、全く記憶に残っていない。

警視庁と父親との間で板挟みになり…

 正式な事情聴取が行われたのは、飯塚ではなく長男が先だった。四月二九日、長男は目白署を訪れ、朝九時から午後六時まで事情聴取を受けた。

 父親の個人情報や病気のこと、運転歴などを事細かく聞かれ、一つ一つ丁寧に答えた。捜査員から「車の故障という主張だと争いが長くなるし、遺族の心証を害して罪が重くなる可能性がある」と言われた。

 父親は「車の異常を止められなかった責任がある」と供述していた。長男は「これが被害者に伝わったら激怒するので、何とか翻意させたい」と決意を話した。長男は警視庁と父親の間で板挟みになっていた。

 約三〇年と四か月続いた「平成」が終わった翌日の五月一日。皇居では剣璽等承継の儀が行われる。午前七時半、空には厚い雲がかかっていた。

 複数の捜査員が目白署に集まり、バンに乗り込んで飯塚の自宅に向けて出発した。この日の目的は家宅捜索(ガサ)。警視庁は飯塚を逮捕しなかったが、証拠に関わる物件(ブツ)は強制的に押収する必要があった。捜査員は車をマンションの近くに停め、撮影用のカメラや手袋、押収品を入れる紙袋などを手に飯塚の部屋を訪ねた。

 対応したのは、事前に連絡をしておいた立会人の長男だった。午前九時ごろ、捜査員が東京簡易裁判所が発付した「捜索差押許可状」、いわゆる“ガサ状〞を読み上げた。長男は頭と目線を下に向け、捜査員が読み終わると、許可状にサインをして印鑑を押した。

 池袋暴走事故をめぐる初の強制捜査は、長男の協力もあり、円滑に進んだ。午後から飯塚の入院先でも家宅捜索が行われた。警視庁は、飯塚側からの任意提出の物も含め、お薬手帳などの医療関係、車関係の証拠品、パソコンやデジカメ、健康器具の足踏み器など六八点を押収した。

 家宅捜索終了後の午後、長男はまた事情聴取を受け、捜査員から「事故から最初の三日間で、警視庁に『なぜ逮捕しないのか』などの約六〇〇件の抗議電話があった」と告げられた。

 飯塚の運転免許も関心の的となっていた。第一現場で一五点、第二現場で二二点、合計三七点の違反点数が加算された。飯塚は警視庁に「もう運転するつもりはありません。処分に従います。足が悪いので意見聴聞会は欠席します」という手紙を出し、六月一四日、飯塚の代理として知人が「運転免許取消処分書」を警視庁鮫洲運転免許試験場で受け取った。「欠格期間」の三年間は、三年後に免許が取得できることを意味していた。

 飯塚の体調は徐々に回復していた。歩行訓練として、病院の廊下を一日四回の頻度で一周するなど、リハビリに励んでいた。睡眠時間も一日平均約五時間は寝ることができていた。

 一方、捜査当局は監視を継続し、東京地検の検事は警視庁に飯塚の見舞客名簿の入手を指示していた。

「私がアクセルやブレーキを踏み間違えたわけではない」

 飯塚の事情聴取をめぐり、正式な供述調書として初めて記録に残ったのは、事故から二四日後の五月一三日に行われたものだ。取調官として白羽の矢が立ったのは、課内で優秀とされた男性警部補だった。警部補は、飯塚と信頼関係を築こうと、飯塚の経歴や業績を全て頭にたたき込んで事情聴取に臨んだ。飯塚はセキュリティが厳重な病室のベッドに座り、終始落ち着いた様子で一時間あまり聴取を受けた。これまで断片的だった供述が一気に具体化した。

「私がアクセルやブレーキを踏み間違えたわけではない、右足の異常で事故が起きたわけではないと思っています。そのため、今回の原因は、現場直前まで異常がなかったアクセルペダルが異常をきたし、加速し始めたため、車両が暴走してしまった。それを止めようとしたブレーキも正常ではなくなり、利きませんでした。ただ、そのような事態になっても私自身が車を止めなければいけなかったことについては、反省をして責任を感じています」

 機能実験の結果は、どう受け止めたのか。

「検査結果に全く納得していません」

「(長男から)『車のセンサー関係は異常なかった、アクセルもブレーキも異常はない』と説明を受けましたが、私はその結果に対して、全く納得していません。その理由は、検査結果はどうであれ事故当時は何らかの異常があった、と私自身が考えているからです」

 飯塚はこの時、「車の異常」をしつこいほど主張した。また、体調に疑念を持つ取調官に対して何度も抗弁し、己の身体に対する揺るぎない自信を示した。

「私は、両足が弱っていてふらつき感があるため、歩くときは杖を使っていますが、座るときはふらつき感はなく『足の弱りは、運転には影響はない』と思っています」

 この釈明も辻褄が合わない主張だと批判された。しかし、冷静に考えると、この説明には合理的な理由がある。身近な例でいうと、足を負傷してギプスで固定した状態でも椅子に座れば体は安定する。体重がかかる部位が不自由な足から尻に移るため、足の可動域も広がるからだ。

 高齢者の場合でも同じで、飯塚は事実を述べたに過ぎない。ただ、運転する際に飯塚の足が問題ないかどうかは別の話である。

決定的となった「父親と長男の溝」

 聴取は四日間にわたり行われた。飯塚はその最後に、事故はプリウスが原因だと改めて主張した。さらに新車の納入を待てば良かったと強調して聴取を締め括った。

「アクア(新車)が納入されるまでの間、車の運転を控えていれば、今回のような車の異常が発生せず事故を防ぐことができたと思っています」

 飯塚は自らの旗幟を鮮明にした。踏み間違いを一切否定する飯塚と、その主張を突き崩そうとする警視庁の攻防が始まった。

 同時に長男との溝も決定的なものとなった。

 捜査関係者は、数年後にこう振り返った。

「一番つらかったのは松永さんだけど、飯塚の長男も本当にしんどかったと思う。あれだけ物事を理解していたのに、父親が納得してくれなかったわけだから」

〈「トヨタの非を認める判決が出る可能性は、限りなくゼロ」裁判で“勝ち目がない”と伝えたけれど…《池袋暴走事故》父・飯塚幸三を説得できなかった「長男の葛藤」〉へ続く

(守田 哲)