Netflix『地面師たち』でホームレスの老人を演じ、鮮烈な印象を残した俳優・五頭岳夫(78)。

【衝撃画像】「6男6女の12人きょうだい」大家族で育った五頭岳夫さん78歳の“幼少期”を写真で見る

 同作でブレイクを果たし、出演シーンがミームとして使われ、Tシャツにまでなってしまった五頭氏に、12人きょうだいの末っ子だった少年時代、「NHKのど自慢」に出るほど夢中になった“歌”、俳優を目指すことになったきっかけなどについて、話を聞いた。(全5回の1回目/2回目に続く)


五頭岳夫さん ©杉山秀樹/文藝春秋

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6男6女の12人きょうだいの末っ子…長姉との年の差はふた回り以上

――芸名の五頭岳夫は、出身地である新潟県の五頭連峰から取られたそうですね。

五頭岳夫さん(以下、五頭) はい。生まれたのが、新潟の水原というところで。水森かおりさんが「越後水原」というご当地ソングを出しているくらい、新潟では親しみを持たれている場所なんですよ。

 6男6女の12人きょうだいで、私が末っ子です。ただ、仏様の掛け軸の裏を見たら水子の名前がさらに2名いることがわかって、実は14人も産まれていたことに、後になって気づきました。

――一番上の方とは、ずいぶん年が離れているのではないですか。

五頭 長姉は大正12年生まれですから、私とはふた回り以上離れています。家の大将は姉でしたね。女の子が2人続いて、長男は昭和8年生まれなんですが、なぜか四男坊みたいな名前がついている。なんとも不思議な家でしたね。きょうだいは2年おきに生まれていたので、ほんと上から順にずらっと並んでいる感じです。

母と姉たちと兄たちの背中だけを見て育った

――お父さんを早くに亡くしたと。

五頭 私は昭和23年の2月生まれなんですけど、その年の8月に父が亡くなっています。お酒を飲んでそのまま。母から聞いた話では、痛みもなく、苦しまずに逝ったということでした。

 ですから私には父の記憶がまったくなく、あるのは肖像画だけ。昔の田舎によくあったじゃないですか、床の間に飾ってある絵。あれだけが、私が知っている父の姿ですね。

 我が家は小作農家で。ちょうど私が生まれる2年前に農地改革があって、我々みたいな小作農の家は地主から田んぼを買わなければいけなくなったんです。お金がないのに土地を買わなければならない。大変だったのは子供の私にも伝わってきましたね。

 一番上の姉は102歳なんですけど、そのお金を稼ぐために芸妓さんになって花柳界に入って。2番目は紡績工場に行ったり、3番目までは家を出て働いていたそうです。で、4番目の子である兄が長男として家を守っていました。兄が15歳ぐらいのときのことですね。父がいなかったから、母と姉たちと兄たちの背中だけを見て育ちました。

――当時の暮らしぶりは。

五頭 お金に関しては楽ではなかったけれど、米農家でしたから、ご飯だけはありました。私は農繁期になるとお風呂を沸かして、みんなが帰ってくる前に夕食の準備をして待っているという役割でした。近所もみんな似たような状況で、地主から田んぼを買ってどう作付けするかに必死でしたね。

小学校で生徒会長、高校生で「NHKのど自慢」新潟県3位に

――どんな子供だったのでしょう。

五頭 早生まれということもあって、最初はみんなについていくのが大変だったようです。でも、ある頃から学芸会に出るようになり、なんだかんだで小学校で児童会長になりました。まあ、目立ちたがり屋だったんでしょうね。

 母はよく映画に連れて行ってくれましたし、商店街の催しで歌や大衆演劇の実演があると、母は自分が行かなくても私だけは行かせてくれました。近所で託児所を開いていたお坊さんに「この子は面白い子だよ」と言われていたらしく、それで自由にさせてくれたようなところがありましたね。

――子供の頃は歌に夢中で、高校生で「NHKのど自慢」に出て新潟県大会で3位になったそうですね。上京当時、作曲家に師事して、プロの歌手を目指していたとも聞いています。

五頭 姉たちが「月刊平凡」や「月刊明星」、「スクリーン」といったエンタメ系の雑誌を読んでいて、私もよく読んでたんです。「平凡」「明星」には歌本の付録があったでしょう。さらにテレビが家に来るまでは、ラジオを聞きまくっていたから、歌というものが身近だったんですね。

 小学校4年生あたりで町ののど自慢大会に出たり、姉と一緒に出たこともありました。今でも3000曲ぐらいは歌えるかなと思いますよ。

――テレビにも夢中に。

五頭 家にテレビが来たのは、上皇上皇后両陛下のご成婚の頃でしたね。テレビが来るまでは「もらいテレビ」といって、テレビのある家へ行って見せてもらっていたんです。それが当たり前だったんでね。

 で、相撲を見終わったら、そのまま子供向けの番組も見て。「月光仮面」とか、山城新伍さんが主演を務めていた「白馬童子」なんかを見ていましたね。

中学では選抜で文化祭の舞台に、高校時代から本格的に演劇の道へ

――小学校の学芸会では6年間、主に主役だったそうですが、引き続き中学の文化祭などでも舞台に立つことが?

五頭 中学は、ベビーブームでしたから、1クラス50人が12クラスぐらいあったわけですよ。その中で文化祭の出し物にクラスから何人か候補をリストアップして出す形だったので、普通に出ていたというか。配役も先生が決めるわけですが、私はいつも親父役とかおじさん役が多かった。風貌からしてそうなんでしょうね(笑)。

 本格的に演劇と向き合ったのは高校時代です。チェーホフのような本格的な舞台を、町の市民劇団がやっているのを見て、「なんて面白いんだろう」と。

 それまでは大衆演劇か、中学の文化祭で伝記ものをやるぐらいでしたから、それは衝撃でしたね。高校3年生になって、自分たちだけでやっていた演劇のサークルを部活動にしてもらえるように動いて。

脇を固める俳優の存在感に圧倒「とにかく芝居の勉強をしたい」

――演劇のどこに魅せられたのでしょう。

五頭 小津安二郎さんや黒澤明さんの映画を観ていてもハッとさせられたんですよ。三船(敏郎)さんら主役がいるけれど、その脇を固めているのが文学座、民藝、俳優座といった新劇の人たちだとわかってきた。そうした方々の存在感にも圧倒されて、「とにかく芝居の勉強をしたい」と思い始めたんです。

 高校を出たら俳優になろうと東宝芸能学校という演劇学校の願書を取り寄せたら、母に見つかってしまって。「夢ばかり見てないで真面目に働け。家族のことを考えてみろ」「どれだけ苦労してあんたを育てたと思ってんだ」と言われましたね。

父の死後18年間、女手1つで12人の子供を育ててきた母の想いに…

――お母さんは俳優になることに反対だった。

五頭 さっきお聞かせしたように、母も上の姉も家のために必死で働いてましたからね。親としたら、子供には安定した生活や人生を手に入れてほしいものでしょう。父が亡くなってから18年間、女手1つで12人の子供を育ててきて、本当に苦労してきた人なんでね。

 それが痛いほどわかったし、反対を押しのける覚悟もなかったですね。それで高校を出て、自動車整備の専門学校に入って2年間学んで。その学校がトヨタと繋がっていたこともあって、上京してトヨペットに就職したんです。

撮影=杉山秀樹/文藝春秋

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