美空ひばりの詞に「歌えない」…松浦亜弥(当時16)初めての“挫折”につんく♂がかけた“アツい言葉”とは?
今月2日(2026年6月)に配信開始された春日井製菓ののど飴「キシリクリスタル」のウェブCMで、ここ13年にわたってほぼ活動を休止してきた歌手の松浦亜弥がさわやかな歌声を披露し、話題を集めている。
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今回のCMはキシリクリスタルの発売25周年を記念してのものだ。春日井製菓の公式サイトによれば、松浦もやはり歌手デビューから今年で25年を迎え、これまで子育てなどさまざまなライフステージを経ながらも、身近な存在として人々から愛され続けていることがキシリクリスタルに重なるとして起用にいたったという。折しもきょう6月25日は松浦の40歳の誕生日である。(全2回の1回目)
松浦は兵庫県姫路市に生まれ育った。家や車のなかでは常に音楽が流れていて、カラオケに行くと歌い通しの母親の影響もあり、歌うのは子供の頃から好きだったという。やがて漠然と歌手になりたいと思うようになったものの、それには東京に行ってスカウトされないと無理だと思い込んでいたらしい。
松浦がのちにその妹分としてデビューするモーニング娘。は、1997年にオーディション番組『ASAYAN』(テレビ東京系)での「シャ乱Q女性ロックボーカリストオーディション」の落選者5名によって結成された。モーニング娘。と、このときのオーディションで合格した平家みちよは、ロックバンド・シャ乱Qのボーカルだったつんく♂のプロデュースによりデビューし、翌1998年にはこの2組をはじめアップフロントグループ系列の芸能事務所所属のアイドルやアーティストが参加するハロー!プロジェクトが始動する。
友達にモー娘。のCDを借りて
しかし、姫路にはテレビ東京のネット局がなくて『ASAYAN』が見られず、松浦はモー娘。がどうやってデビューしたのか知らなかった。松浦がモー娘。の歌を聴くようになったのは、彼女たちが「LOVEマシーン」(1999年)でブレイクしてからで、中学校のスキー合宿で班ごとに演し物を披露した際、この曲を班の仲間と踊って歌ったのがきっかけだという。
この流れで「ハッピーサマーウェディング」(2000年)のCDを友達から借りたところ、歌詞カードのあいだに「第4回モーニング娘。&平家みちよ妹分オーディション」の応募用紙が入っているのを見つける。ちょっと応募してみようかと思い、母に相談して、自己PRを書いたレポート用紙とともに自分の歌唱(「ハッピーサマーウェディング」と宇多田ヒカルの「Automatic」)を録音したテープを送った。
親子で半ば興味本位から応募したのだが、1次審査を通り、2次審査のオーディションを上京して受けることになる。その前日、まだオーディションで何を歌うか決めていなかったので、とりあえずカラオケボックスに行き、浜崎あゆみの「Far away」を歌うといきなり採点で100点が出た。それからいろんな曲を歌ったあとで、最後にもう1度「Far away」を歌ったところまた100点を取る。「これはもしかしたらイケるかもしれない」と思った松浦は、オーディション本番でも同曲を歌ったのだった。
絶対落ちると思ったが…
ただ、オーディションではずっと緊張していて、終わった瞬間、絶対落ちると思ったらしい。結果は1週間後に伝えると言われたが、それをすぎても連絡がなかったので、やっぱりだめだったんだと思っていたら、2〜3日ほど遅れて「デビューさせます!」と伝えられた。合格が伝えられたときのことを彼女は《ポカ〜ンっていうか。でもなんかすごいうれしくて、「ウワ〜ッ!!」ってはしゃいじゃいましたけどねー》と振り返る(松浦亜弥・小貫信昭『亜弥とあやや』ソニー・マガジンズ、2004年)。
デビューが決まり、母や妹2人は応援してくれたなか、父だけは以前より歌手になりたいと言う松浦に「高校卒業してからにしてくれないか」と言っていただけに猛反対する。それでも毎日顔を合わせるたび彼女から説得して、ついには父が折れた。東京に出る当日の朝には、彼女の家に友達が10人ぐらい集まって、花*花の「さよなら大好きな人」を歌って見送ってくれたという。
「あやや」命名の理由は?
CDデビュー前にはドラマ『美・少女日記』(テレビ東京系、2000年)に出演、このとき沖縄ロケで一緒になった先輩の平家みちよ、りんね(カントリー娘。)からは「まちゅうら」と呼ばれていたという。だが、その後、別のテレビ番組の企画で彼女に改めてニックネームをつけることになり、モー娘。のメンバーだった飯田圭織の発案で「あやや」と命名された。亜弥という名前だけでなく、モー娘。の「恋のダンスサイト」(2000年)の「AI YAI YA(アイヤイヤ〜)」というかけ声からとったらしい。3文字になったのは、覚えやすく、ファンがかけ声をしやすいという理由もあった。
初めてステージに立ったはCDデビューの3ヵ月前、2001年1月に開催されたハロー!プロジェクトのコンサートで、バラード曲「100回のKISS」を歌った。結局、この曲は1stシングルでは採用されず、代わってアップテンポな「ドッキドキ!LOVEメール」で4月にデビューする。
「ドッキドキ!LOVEメール」は上京したての少女の気持ちを歌った曲で、そこには松浦自身の経験が反映されていた。もっとも、歌詞に出てくるシモキタが下北沢という町だとわからず、レコーディングのときにスタッフに訊いたとか。母親からはリリース後、「なんか元気な感じがあって、亜弥らしい曲だね」「『100回のKISS』より、デビューということなら、絶対こっちの方が良かったね」と言われたという(前掲、『亜弥とあやや』)。
デビュー後すぐにヒットを飛ばす
このあと、6月発売の2ndシングル「トロピカ〜ル恋して〜る」、9月発売の3rdシングル「LOVE涙色」とアップテンポ曲が続いたあとで、4枚目のシングルとして11月に満を持して前出の「100回のKISS」をリリースした。オリコンのシングルチャートでは「LOVE涙色」が3位にランクインして勢いに乗り、「100回のKISS」は最高で2位に入り、大ヒットとなる。
同曲は松浦の歌唱力を認知させた。音楽評論家・作詞家の麻生香太郎は、彼女の凄味はその歌唱力、それも声量の豊かさや音感の良さではなく、感情をダイレクトに伝えられる能力だと評し、《この曲は前3作とは異なり情景描写も小道具も一切出てこない。松浦は、キーワードである「100回」を単純に英語の「many」の意味に響かせるのではなく、「指折り数えるリアリティのある100回」として表現してみせた》と絶賛している(『日経エンタテインメント!』2002年4月号)。
本人によれば、デビュー前から感情移入することは得意で、ドラマを見たりマンガを読んでいても、気づけば「自分が主人公?」ぐらいの気分になっていて涙も流すことができたという(前掲、『亜弥とあやや』)。
紅白初出場、ヘソ出しルックがおなじみに
この年12月には、デビュー1年を経ずして紅白歌合戦に初出場を果たし、「LOVE涙色」を歌った。
松浦といえばヘソ出しルックがおなじみだった。もともとはデビュー曲「ドッキドキ!LOVEメール」の衣装が途中からヘソ出しに変わったのが始まりで、本人としてみれば最初は、いやでこそなかったが、恥ずかしかったようだ。それでも新曲のたび披露するうち、ヘソ出しのイメージがついていった。
もともと松浦は自分を鏡で見るのが好きで、自分の見せ方には意識的だった。ちょうどデビューする前後の中学時代にプリクラが流行っていて、友達同士で「これぐらいの上目づかいが一番いいよね」などと言いながら撮っては、自分がかわいく見える角度を研究していたという。それだけにミュージックビデオの撮影でも、自分の気が済むまで何回も撮り直すほどであった。
デビューから1年が経とうとしていた2002年2月にリリースした「♡桃色片想い♡」は、松浦最大のヒット曲となり、モノマネもよくされた。このあとも、「Yeah!めっちゃホリディ」「The美学」とアップテンポの曲が続く。
初めて突き当たった壁
歌に関してはデビュー以来、さほど苦労することなく来た。新曲をもらっても、自分がその曲でやりたいことがすぐに生まれ、絶対クリアしてやると思ってレコーディングに臨んでいたという。だが、2002年12月リリースの8枚目のシングル「草原の人」で初めて壁に突き当たる。
「草原の人」は、歌謡界の女王と呼ばれた歌手・美空ひばり(1989年死去)が残した詞につんく♂が曲をつけたものだ。松浦は自分が歌うと言われた当初、美空ひばりのことをよく知らず、さほど重くは受け止めなかった。だが、周囲からすごいことだと言われ、話を聞いたり、資料を見せてもらったりするうち、だんだん美空ひばりの偉大さがわかってきた。さらに寝る前にちょっと見ておこうと思い、ひばりのライブや少女歌手時代のビデオを見始めたところ、その目力に吸い込まれるようにして見入ってしまい、こんなすごい人の歌を自分が歌っていいのかと怖くなったという。
「松浦亜弥はけっして負けてないと思う」
このとき初めて「歌えない」と思った松浦は、プロデューサーのつんく♂に相談すると、「松浦は松浦なんだから、自分なりに歌いな」という答えが返ってきた。さらに「美空ひばりさんはすごい方だけど、美空さんが15、16、17のときと、松浦亜弥が15、16、17のときはけっして負けてないと思う」とも励まされた。そう言われて松浦は、プレッシャーから解放され、壁を乗り越えることができたのだった。
松浦が美空ひばりから受けた影響は大きく、のちにつんく♂のプロデュースを離れて歌手活動をするようになってからも、《美空さんのすごさは、メロディを伝える以前に言葉がはっきりと伝わること。ここからここまではきっと自分の気持ちを繋げて伝えたかったんだな、ということがすぐよく分かる》と語っている(『ミュージック・マガジン』2006年12月号)。(#2につづく)
〈「私はごく普通に、お母さんをしていたい」病気公表→27歳で結婚→活動休止…3児の母・松浦亜弥(40)が語っていた“未来の展望”〉へ続く
(近藤 正高)

