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多大なインパクトを遺した巨匠

伝説的な自動車デザイナー、マルチェロ・ガンディーニ氏は、イタリアを代表する数々の名車をデザインしたほか、イタリア国外のクルマも数多く手掛けてきた。

【画像】ランボルギーニの歴史に燦然と輝くスーパーカー【ランボルギーニ・ミウラを詳しく見る】 全24枚

トリノ出身のガンディーニ氏は、同時代で最も多作で影響力のある自動車デザイナーの1人として知られている。1960年代半ば、デザイン会社の名門ベルトーネに在籍し、ランボルギーニ・ミウラ、ランチア・ストラトス、そしてマラネロで唯一の作品であるフェラーリ308/GT4といったアイコンを生み出した。


マルチェロ・ガンディーニ氏がデザインに携わった50台を紹介する。

2024年に逝去したガンディーニ氏とその偉大な業績に敬意を表し、彼の最も美しい作品を50台紹介する。

ランボルギーニ・ミウラ(1966年)

このモデルについては少し議論の余地がある。なぜなら、ガンディーニ氏がミウラをデザインしたのは、ジョルジェット・ジウジアーロ氏の後任としてベルトーネに在籍していた時期のことだからだ。ジウジアーロ氏はミウラのデザインの一部に自分が関与したと主張しているが、ガンディーニ氏はそれを否定しており、ランボルギーニもその見解に同意している。


ランボルギーニ・ミウラ(1966年)

ポルシェ911ロードスター(1966年)

このコンセプトカーは、ポルシェの米国カリフォルニア販売代理店を営むジョニー・フォン・ノイマン氏の依頼で製作されたものだ。同氏は2人乗りコンバーチブルに需要があると見込んでいたが、実際にはそうではなかった。1966年のジュネーブ・モーターショーで公開されたものの、反響はほとんどなかったのだ。


ポルシェ911ロードスター(1966年)

ジャガーFT 3.8(1966年)

FT 3.8のベースとなった車両を示唆する視覚的な手がかりはほとんどない。実は、ジャガーSタイプである。

イタリアのジャガー輸入業者フェルッチオ・タルキーニ氏(車名の「FT」の由来)の依頼によるもので、モダンな外観を持つ高級4人乗りクーペを展開する計画だった。しかし、1966年のジュネーブ・モーターショーで公開された後は、ジャガー420のプラットフォームをベースにした車両がもう1台だけ製作されたに過ぎない。


ジャガーFT 3.8(1966年)

BMW E3(1966年)

1960年代半ば、BMWは破産を回避するために抜本的な変革の真っ只中にあった。最初に登場したのが『ノイ・クラッセ』セダンであり、その上位に位置するのがコードネームE3の『ニュー・シックス』だった。

当初の計画では1.8Lまたは2.0Lの4気筒エンジンを搭載する予定だったが、1968年に生産が開始された時点では、排気量2.5L〜3.3Lの6気筒エンジンが搭載されていた。


BMW E3(1966年)

アルファ・ロメオ・モントリオール(1967年)

1967年、カナダのモントリオールで万国博覧会が開催され、これを記念してアルファ・ロメオはイタリアのカロッツェリア・ベルトーネにコンセプトカー2台の設計と製作を依頼した。目指したのは「自動車分野における人間の究極の願望を表現すること」であり、その結果、非常に流線型のクーペが誕生した。

1.6Lのアルファ・ロメオ・ジュリア・スプリント・クーペをベースにしたこの無名のコンセプトカーは、来場者やメディアから大好評を博し、量産化を求める声が殺到した。1970年には2.6L V8エンジンを搭載した量産モデルのモントリオールが発表された。生産は1977年に終了し、販売台数は4000台未満にとどまる。


アルファ・ロメオ・モントリオール(1967年)

フィアット125エグゼクティブ(1967年)

ガンディーニ氏は、ノーズからテールまで一貫したウエストラインは必要ないと考えていた。彼は荷物の積載量を増やすためにトランクリッドを高くするという手法をとり、1967年にフィアット125エグゼクティブを考案。そのスタイリングは当時としてはかなり過激なものだった。

125エグゼクティブの要素は後のデザインに採用されたものの、このモデル自体が量産化されることはなかった。


フィアット125エグゼクティブ(1967年)

ランボルギーニ・マルツァル(1967年)

シルエットだけ見れば、マルツァルはそれほど奇抜ではない。しかし、スラット付きのリアウィンドウから、全面ガラス張りのガルウィングドア、ガラスルーフに至るまで、このコンセプトカーは実に豊かな想像力の産物であった。

マルツァルは実際に走行可能で、1967年のジュネー・ブモーターショーで初公開された際には最高出力175psの2.0L直列6気筒エンジンを搭載していた。これはミウラの4.0L V12エンジンの半分にあたるものだ。


ランボルギーニ・マルツァル(1967年)

ジャガー・ピラーナ(1967年)

ガンディーニ氏はここでも、ベース車であるジャガーEタイプの存在を巧みにカモフラージュしている。ピラーナは英紙『デイリー・テレグラフ』の依頼で作られたもので、同紙はアールズ・コート・モーターショーのメインスポンサーであった。ピラーナは1967年のショーにおける目玉と位置付けられた。

ベルトーネには、ピラーナの設計と製作にわずか5か月しか与えられず、予算はわずか2万ポンドだった。ショーが終わると、車両は売却され、現在では米国の個人所有となっている。


ジャガー・ピラーナ(1967年)

ランボルギーニ・ミウラ・ロードスター(1968年)

1968年のブリュッセル・モーターショーに初出展した際、ベルトーネは来場者をあっと驚かせるような展示車を作ろうとしていた。1966年にミウラが発表されて以来、同社はそのオープントップモデルを検討しており、1968年1月にミウラ・ロードスターとして披露した。

V12エンジンをアピールするため、フロントガラスと後部ルーフセクションは低くなっている。Cピラーのエアインテークスラットも拡大され、リアスポイラーは新設計のテールランプに合わせて改良された。残念ながら、1台限りのワンオフ車にとどまった。


ランボルギーニ・ミウラ・ロードスター(1968年)

アルファ・ロメオ・カラボ(1968年)

奇抜なコンセプトカーといえば、アルファ・ロメオ・ティーポ33をベースに、ベルトーネが手掛けたカラボほど突飛なものは少ない。

シザードア、極端なウェッジシェイプ、リトラクタブルヘッドライトを備えるなど未来的なデザインである。ミドシップに搭載された230psの2.0L V8エンジンのおかげで、その走行性能はかなり高かったのではないかと推測される。


アルファ・ロメオ・カラボ(1968年)

ランボルギーニ・エスパーダ(1968年)

ランボルギーニ誕生からわずか5年後、同社は2シーターのミウラや2+2の400GTと並んで販売する、初の4シーターモデルを発表した。

前述のマルツァルの影響が明確に見て取れるエスパーダは、ランボルギーニの他のモデルと同様にビッザリーニ設計のV12エンジンを搭載している。最高出力325psを発生し、5速マニュアル・トランスミッションを介して後輪を駆動する。最高速度250km/hを謳う、当時世界最速クラスの4人乗り乗用車であった。1978年までの生産台数は1217台に達した。


ランボルギーニ・エスパーダ(1968年)

フィアット128クーペ・ショッピング(1969年)

フィアット128は同社初のフロントエンジン・前輪駆動車であり、ある種の転換点となったモデルだ。

その構造的メリットを活かそうとしたガンディーニ氏は、トランクの下に収納できるスライド式のショッピングカートや、ベビーカーを装備したクルマを作り上げた。しかし、このアイデアが世間に受け入れられることはなかった。


フィアット128クーペ・ショッピング(1969年)

アウトビアンキ・ランナバウト(1969年)

1965年に登場したリアエンジンのフィアット850スパイダーの後継モデルを見据え、1969年のトリノ・モーターショーでこのミドシップコンセプトカーが披露された。

スピードボートのデザインに着想を得たランナバウトには、フィアットが買収したばかりのアウトビアンキの名が与えられた。ランナバウトは圧倒的な好評を受け、フィアットX1/9として発売された。ただし、量産化にあたって大幅な変更が加えられている。


アウトビアンキ・ランナバウト(1969年)

ランチア・ストラトスHFゼロ(1970年)

これほどドラマチックなコンセプトカーは他に類を見ない。実現する運命にはなかった、狂気とも言えるほど非実用的なウェッジシェイプだが、現実世界から人々を逃避させるには十分すぎた。

ランチア・フルビアから流用された1.6L V4エンジンという、さほど刺激的ではないパワートレインを搭載しているものの、ストラトス・ゼロは鋭利なノーズ部分に10個の超薄型ヘッドライトを配し、リアには84個の電球によって光の輪を描いている。2011年に76万1600ユーロで売却され、現在は個人所有となっている。


ランチア・ストラトスHFゼロ(1970年)

ランボルギーニ・ハラマ(1970年)

よほど熱心なランボルギーニ愛好家でない限り、ハラマのことを知る人は少ないだろう。このモデルは、イスレロ(400GTの後継車)の後継として登場した。

以前と同様にフロントには3929ccのV12エンジンが搭載され、リアウィンドウ上部の小さなスポイラーから部分的に隠されたヘッドライトに至るまで、洗練されたデザインのディテールが随所に散りばめられている。しかし、販売台数は伸び悩み、1970年から1976年の間に販売されたのはわずか327台だった。


ランボルギーニ・ハラマ(1970年)

ランチア・ストラトス(1971年)

1971年頃、ランチアはフルビア・クーペでラリー界において好調を維持していたが、車齢を重ねるにつれ、ポルシェ911やアルピーヌA110といったライバル車に苦戦を強いられるようになっていた。

そこで、最初からラリー専用マシンとして開発されたストラトスが登場する。ストラトスはフェラーリ246 GT “ディーノ” と同じ2.4L V6エンジンを搭載し、1972年11月にモータースポーツデビューを果たした。1974年までにはロードレースやラリーを席巻し、1974年、1975年、1976年の世界ラリー選手権を制覇している。


ランチア・ストラトス(1971年)

(翻訳者注:この記事は「中編」へ続きます。)