朝ドラに3度落選、“仕事がない時期”も…「自分は万人受けするタイプではない」波瑠(35)の転機になった“見た目の変化”とは?
きょう6月17日、俳優の波瑠が35歳の誕生日を迎えた。ちょうど父の日が近いが、彼女の芸能界デビューに際しては、父とのあいだでこんなエピソードが残る。(全2回の1回目)
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6月17日に誕生日を迎えた波瑠(2017年、エランドール賞授賞式で) ©時事通信社
両親と姉1人という彼女の育った家には、家族を大切にするというルールがあり、誰かの誕生日や記念日には、地元である東京・下町のもんじゃ焼きの店に集まったり、買い物に出かけたりと、一緒にすごすのが恒例だった。
それが、彼女が中学1年のとき、事務所に入るきっかけになったオーディションの日と、父の誕生日祝いを兼ねて家族旅行に行く予定が重なってしまった。彼女だけ旅行に行けないと知った父は、合格するかもわからないし、久々の家族旅行だからこちらを優先したいと言ったものの、それ以上は何も言わず、オーディションに行かせてくれた。《父が頑固で、旅行に出かけていたら、私は今ここにいないかもしれないので「本当にありがとう」と思っています》と彼女は後年、感謝の思いを述べている(『サンデー毎日』2015年1月25日号)。
人と違うことをしたかった
そんな波瑠だが、じつはもともとは人前で何かをするのは嫌いで、《正直、よく分からないままオーディションを受けてしまった、という感じです》とのちに明かしている(『anan』2015年10月7日号)。
その一方で、《当時、思春期の真っ只中で、人と違うことをしたかったんです。人と同じ色に染まりたくないっていうか…。それに私、人に何か物事を決められることがイヤなんです。自分のことは自分で決めて、失敗したときも自分で責任を取りたい》と、デビュー数年目のインタビューで語っているように(『CIRCUS MAX』2008年10月号)、内には熱いものを秘めていた。
こうして事務所(ホリ・エージェンシー)に入ると、14歳でドラマ『対岸の彼女』(WOWOW、2006年)でデビューする。ただし、当時はモデル志望で、演技の仕事にはあまり興味がなかったという。高校に進学した2007年からはティーン誌『Seventeen(セブンティーン)』の専属モデルを務めるようになり(同期に大政絢がいる)、並行してドラマや映画に出演を続ける。
人気ケータイ小説『恋空』があいついで映画化、ドラマ化されると、いずれにも出演している。2007年の映画版では新垣結衣演じるヒロインの親友のギャル女子高生という彼女自身とはまるで違うキャラクターで、最初はテンションをつかむのが難しかったという。さらに2008年のドラマ版では、瀬戸康史演じる主人公の元彼女で、ヒロインに執拗に嫌がらせをする役を演じた。
ただ、筆者の記憶では、駆け出しのころの波瑠はサイダーなどのCMに出演していた印象のほうが強い。このほか、2008年には岡本真夜が作詞・作曲した「I Miss You」で歌手デビューもしている。
先輩には榮倉奈々、桐谷美玲…「自分は万人受けするタイプではない」
こうして書くとデビュー以来、順調に歩んできたように思えるが、本人は少しあとで振り返って《モデルをやっているときから、自分は万人受けするタイプではないと思ってました》という(『anan』前掲号)。当時の『Seventeen』のモデルの先輩には榮倉奈々や桐谷美玲がおり、波瑠は《そういった大人気者の陰で好きなことをやっているような感じでしたね。だから応援してくれる人もいる一方で、首をかしげる人も実際いました》とも語っている(同上)。
俳優として演じる役も、どちらかといえば個性的なキャラクターが多かったので、やはり自分は万人受けするとは思っていなかったという。そのなかで演技にだんだん目覚めていく。17歳のときに出演した映画『女の子ものがたり』(2009年)では、地方ロケにマネージャーもつけず一人で出かけた。
ロケのあいだは毎日撮影が終わると、宿泊先のホテルで女性プロデューサーが一緒に台本を読み合わせてリハーサルしてくれた。そのとき、セリフをまだきちんと覚えていなかったため、「この段階でまだ台本を持っているなんてありえない。持ってこなくても大丈夫なくらいにしなさい」などと叱責されたという。
映画のなかでは、共演した大後寿々花、高山侑子と3人で泥だらけになりながら喧嘩をするシーンがあり、監督から本気で殴れと言われ、躊躇しながらもそうすると、お互いに本当に痛くて、スカートも破けるほどだった。監督もプロデューサーも厳しくて、《本当に厳しいお父さんとお母さんがいるみたいな感じでした(笑)》と振り返る(「THE CHANGE」2025年10月24日配信)。
そうした経験から俳優としての自覚も強くなったのだろう、同作の公開時には次のように抱負を述べていた。
〈《わたしの場合、『セブンティーン』のモデルが映画に出てる、ドラマに出てるっていう目線で見られちゃうと思うんですけど、ついでにじゃなく、ちゃんと真面目にお芝居の仕事をやってるっていうことが伝わればいいなって。観てくれる人たちに、それが伝わるような仕事が出来る人になりたいですね》(『CUT』2009年9月号)〉
その後も仕事のたび未熟さを突きつけられたような気持ちを抱きつつ、「こんなんじゃだめだ」と自分を奮い立たせた。翌年出演した映画『マリア様がみてる』(2010年)には社交ダンスのシーンがあり、台本に「完璧に踊る」と書いてあったので、クランクイン前に約2週間、猛特訓した。
「お仕事がない時期はありましたが…」
前後して高校を卒業すると、俳優という仕事に向き合うため、大学には進学しなかった。だからといって出演依頼がひっきりなしにあったわけではない。仕事があまりなかった時期は、演技の勉強のため、とにかく映画を観ていたという。
当時、何か資格を取ろうかとも頭をよぎったが、それが逃げ道になってしまうと思い、その選択はしなかった。《お仕事がない時期はありましたが、上手くいかないときにも、一途(いちず)に踏ん張れる人が上にいけると思ったんですよね》と当時を振り返る(「クランクイン!」2023年3月15日配信)。
ショートヘアが“転機”に
2012年には『Seventeen』のモデルを卒業し、女性誌『non-no』の専属に移行するにあたり、同誌の編集長から勧められ、それまで伸ばしていた髪を切ってショートヘアにした。20代前半の同時期には、実家を出て一人暮らしも始めている。両親からは「東京に実家があるのに何で出ていくの」と何度も止められたが、《大人になりたかったし、自分だけのスペースが欲しかったから》(『MORE』2017年2月号)と押し通す。その結果、得たものは大きかったようだ。
〈《自分で選んだものを周りに置いて、生活の仕方もちゃんと一人で選択していく。そんな経験は人生ではじめてだったので、勉強になることはたくさんありました。お仕事の環境も変わる中で、『みんなと同じ枠にいなくてもいいんだ』とか『私はこういうことをして過ごすのが好きなんだな』ということにも改めて気づけました》(『anan』2016年10月26日号)〉
髪はそれまでどんな役柄にも対応できるよう、とくに時代劇のオファーの可能性を考えて伸ばしていた。それだけにショートヘアにすることはマネージャーに不安を抱かせたようだが、これも結果的に吉と出て、いままでとは違ったイメージを持たれるようになり、オーディションに受かることも増えたという。
オーディションに落ち続けた朝ドラへの挑戦
この間、NHKの朝ドラ(連続テレビ小説)のオーディションを『てっぱん』(2010年度後期)、『純と愛』(2012年度後期)、『あまちゃん』(2013年度前期)と受けては落ち続けていた。それでも彼女は受験自体を楽しんでいたところがあったようだ。
〈《お芝居の経験がある人もない人も、平等に受けられる朝ドラのオーディションは、私にとって挑戦するのが当たり前のものでした。オーディションシートに、出身地や身長、特技などを手書きで記入しながら、「今年もこの季節がやってきた!」とワクワクしましたね。朝ドラは、私にとってキラキラした憧れの地。毎回「食らいつけるものには食らいつく」という気持ちで、挑んでいました》(『婦人公論』2015年10月27日号)〉
『純と愛』に続いて最終選考まで残った『あまちゃん』のオーディションでは、「何でもいいから1曲歌って」と言われた。とっさに中学の校歌が頭に浮かび、歌詞を思い出しながら熱唱したが、結局このときも落ちている。この課題はドラマでヒロインがご当地アイドルになって歌う展開があったためで、波瑠も放送を見て「ああ、だから歌わせたのね」と納得した。
それでもめげず、『あさが来た』(2015年度後期)のオーディションを4度目の挑戦で受ける。その2次審査で、幼い頃から主人公の世話をしてくれたお付きの女性(劇中では友近が演じた)と相撲をとるよう言われた。《過去の経験から「何があってもおかしくない」という覚悟で臨んだおかげか、不思議と難しく感じませんでした。足の爪が欠けるほど、相撲に集中(笑)》したという(『婦人公論』前掲号)。
これが評価を得たのか、見事ヒロインに選ばれたのだった。彼女に知らされたのは記者発表の前日で、NHKの大阪放送局まで呼ばれて決定したと聞かされたときは、びっくりしすぎて、うれしいという感覚も飛んでしまったとか。(#2につづく)
〈《5歳下俳優と結婚》「違う自分になっちゃった」朝ドラは“最高視聴率”記録も…波瑠(35)が乗り越えた“5年間の孤独”〉へ続く
(近藤 正高)
