【追悼】「どう乗り越えるかは自分次第なんだよ」ガッツ石松さんが語っていた“親ガチャ”と嘆く若い人に伝えたい言葉
元ボクシング世界チャンピオンから俳優・タレントに転身し、長く人気を博したガッツ石松さんが、6月2日、肺炎のため亡くなった。76歳だった。葬儀は遺族の意向により、近親者のみで執り行われたという。
【写真を見る】マイケル・ダグラスとガッツ石松さんのツーショット、高倉健さんと菅原文太さんとの一枚、若かりし頃の妻とのツーショット
ボクサーから芸能人に転身し成功した、まさに先駆けの存在だったガッツ石松さん。約3年前の「NEWSポストセブン」のインタビューでは、タレント活動より俳優業の仕事の方が多く、それもまた「サムタイムときどき」だという生活を明かしていた。今回は訃報に際し、その内容を再掲載する(登場人物の年齢などは掲載当時のママ。『NEWSポストセブン』2023年9月5日配信分より)。【前後編の後編。前編から読む】
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俳優の仕事は、サムタイムときどきだね。一昨年のドラマ『日本沈没──希望のひと──』(TBS系)では杏ちゃんと小栗旬さんと共演したよ。杏ちゃんのお父さんの上原謙……じゃなくて私は渡辺謙ちゃんと仲良かったから、一緒に写真を撮った。謙ちゃんとはNHKの朝ドラ『はね駒』で共演したんだ。ちょうど杏ちゃんが産まれたときだったから、謙ちゃんがいろんな話をしててさ、私がお祝いを送ったりしたんだよね。
それから今年は、依頼人役を演じた『必殺仕事人』(テレビ朝日)の放送が1月にあったのと、今はNHK Eテレの『Q 〜こどものための哲学〜』っていう15分番組で、"チッチ"という人形の声をやったのが、毎週金曜日の夕方4時45分から再放送されてるね。あとね、とちぎテレビの『とちブラ』って番組のナレーションもやってるよ。
芸能人・ガッツ石松という第二の人生も峠を越したね。もうやりきった。元世界チャンピオンというイメージを大事にしたいから、それを貶めるような極悪非道な役だけはやらなかったけど。
芸能界で成功できた理由は割り切りと独学の演技
芸能活動は、ボクサーとして現役の世界チャンピオンだったときに始めたんだ。憧れだった高倉健さん、菅原文太さんと『神戸国際ギャング』(1975年公開)って東映映画で共演してね。健さんや文太さんは違ったけど、撮影所には「世界チャンピオンだからって何ができるんだ」ってバカにする人もいたし、こっちが「こんにちは」と挨拶しても横向いて知らんぷりするのもいたよ。
テレビの世界もそうだった。チャンピオンのときに『金曜10時! うわさのチャンネル!!』(日本テレビ系)っていう当時、人気のあったバラエティ番組に出てたんだけど、ハリセンで頭殴られたり、食堂でドッキリをしかけられたりした。こっちは世界チャンピオンだ、ってプライドもあったけど、ボクシング界と芸能界は違う世界。お邪魔してる立場だから、と割り切った。
いちいち気にしてたら仕事にならないし、そういう番組だとわかって納得して出演してたから、それで怒っていたら「なんで出演したの?」ってなっちゃう。それが常識だとわきまえていたから、結果的に芸能界にも受け入れられたんじゃないかな。芸能界でも成功できたのは、そうやって頭を切り替えられたからだと、今振り返ると思うよ。
でも、芸能界でも世界のトップにいる人は違うと思ったね。スティーブン・スピルバーグ監督の映画『太陽の帝国』(1988年公開)に日本兵役で出演したんだけど、スピちゃんの方からオーディションを受けるよう声がかかった。私が元世界チャンピオンだから注目してたんだね。撮影のときは「一緒に写真を撮りたい」と向こうから求めてきた。スピちゃんはきちんと姿勢を正して写真におさまったよ。世界チャンピオンに対するリスペクトがあるんだ。
1989年の米国映画『ブラック・レイン』にヤクザの子分役で出演したときも、主演のマイケル・ダグラスらが「一緒に写真を撮ろう」って言ってきたしさ。この映画では(高倉)健さんと再共演もしたし、松田優作とも共演した。
演技を学んだのは独学。ボクシングもそうだったから。自分で研究してやるから、それが持ち味になって戦えた。演技も同じ。みんな一緒じゃダメ、いつも同じじゃダメ。セリフはもちろん覚えて現場に入る。映画の撮影現場で台本を見てる人なんかいなかったから。それがプロなんだよ。
政治家目指し、多額の借金を背負う
自分で映画も撮ったからね。『カンバック』(1990年公開)というボクサーの映画と、自分の信条を反映させた『罪と罰』(2012年公開)というバイオレンス映画。どっちも企画、脚本、監督、主演を務めた。ボクサー出身でこんな人、いないでしょ? やりたいことは全部やってきた。梶芽衣子さんともドラマで共演して良くしてもらったし。だから、芸能界でもやりきったと言える。満足したよ。
おかげで借金も背負った。映画製作には金がかかったし、政治家を目指して1996年の衆議院議員選挙に出馬したのも大きかった。残念ながら落選してしまって、億単位の借金が残ったんだよ。毎月の返済が300万円。でも、10年で返しきった。芸能活動をがんばってね。CMが大きかったな。1本2000万〜3000万円ぐらいになったから。ボクサー時代に芸能活動を始めたときから、自分の事務所を作って運営し、ギャラ交渉も全部やってきた。我ながらたいしたもんだよ。
ボクシングジムの経営はなぜやらなかったか? やろうと思えばいつでもできると思ったから。最後の砦、というかな。いつかやろうと思って、この事務所もジムにいつでもリフォームできるように考えて作ったんだよ。でも、もうやる気はないね。ボクサーはいろんなタイプがいるから育てるのがすごく難しいし、ジムの運営を任せられるいい番頭やトレーナーが必要だけど、簡単には見つからないから。
商売はたくさんやってきたんだよ。ボクサー時代からファイトマネーで稼いだ金で喫茶店やスナック、サパークラブ、ラーメン屋……いろいろやってきた。みんなつぶれたけど。人に任せてたから、私は細かいことは言わずに、任せてる人間が「金が足りない」といえばポンと渡して、チェックもしなかったから……。管理ができない。だけど、信じて任せていたのは自分だから、自分が悪い。経営者は向いてないね。
若い人に伝えたいのは、「人間万事塞翁が馬」ってこと。長い人生、いつ何が幸いするかわからない。そのときはひどい目にあったとか、不運だったと思っても、後になったらそれで良かったんだってこともある。何も問題が起こらない人はいないし、何が幸いするかわからない。苦労・苦難があっても、それを最終的に乗り越えていけば、いい経験だった、と思えるんだな。
私も子どものときは家が貧乏で食えないほどだったけど、だからこそ「いつか見てろ」とハングリー精神が生まれた。世界チャンピオンのファイトマネーは最高6000万円(当時)だったから、商売もできたし、この家も建てられた。ここの土地と家で、当時で2、3億円だったよ(笑)。
今、"親ガチャ"と言ったりして生まれを嘆くのもいるようだけど、その境遇をどう乗り越えるかは、自分次第なんだよ。
ボクサー時代は右のパンチを出すのが相手には見えないほど早くて、「幻の右」なんて言われた。でも、この右手は、生後まもなく転んで囲炉裏で大やけどを負ったり、事故で大ケガをしたことが何度もあった。運良く九死に一生を得て、いろんなことを乗り越えてボクサーになったとき、この右手が運を呼び込んでくれた。世界チャンピオンには、実力に加えて運がなければなれない。だから、人生、わからない。
恐れずチャレンジする。そして簡単に投げないってこと。それが私の人生のモットーだね。
(了。前編から読む)
取材・文/中野裕子(ジャーナリスト) 撮影/山口比佐夫

