率直な想いを語ってくれた鬼木監督。監督として過ごした8年は様々な出来事があった。写真:滝川敏之

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 2017年のクラブ悲願のリーグ制覇など川崎に数々のタイトルをもたらしてきた鬼木達監督が今季限りで退任し、ひとつの挑戦を終えた。指揮8年で7つのタイトル獲得という偉業を成し遂げた指揮官の知られざる歩みとは。ここまでの道のりを振り返る川崎でのラストインタビューである(全4回/1回)。

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 20時から21時頃に家に帰り、早朝7、8時頃にはすでにクラブハウスにいる。

 家に帰っても映像分析などを進め、ソファで寝落ちすることも珍しくない。睡眠時間は平均4、5時間。鬼木監督にとってこの8年はまさにサッカー漬けで、毎日のように1日の半分以上をクラブハウスで過ごしてきた。

 それはフロンターレが好きだから。もっと魅力的なサッカーをできる、選手たちはもっと成長できると信じていたから。苦しさよりも楽しさが優っていた。そんな“オニさん”を誰もが慕っていた。その背中を指標としていた。

 選手や育成年代の指導者時代などを含めれば川崎歴は26年だ。通いなれた道。毎日のように見てきた風景。その日常が変わってしまうことに今は想像が追いつかないのだろう。

 もっとも喜び、涙、悔しさ、様々な感情が沁み込んだその道が、遂にフィナーレへと行き着いたのだ。2024年12月8日の福岡戦をもって、鬼木監督の川崎での挑戦に、ひとまずピリオドが打たれたのである。

 今季限りでの退任が発表されたのは10月16日。ルヴァンカップ・準決勝の新潟との第2戦に敗れ、2024年シーズンの無冠が決まった3日後であった。

 時計の針を少し戻せば、新潟との第1戦の前日、10月8日にはクラブとの話し合いが設けられ、今季限りで退任する方向性が決まっていた。だからこそ、新潟との準決勝には「なんとしても勝って決勝へ行ってタイトルを獲りたかった」と振り返る。

 しかし、アウェーでの第1戦を1−4で落とすと、ホームでの第2戦も0−2の敗戦。願いが叶うことはなかった。

 敵地で苦しい敗戦を突きつけられた翌日、家に帰ると、誰よりも早く妻の麗子さんに報告したという。

「監督を辞めることになった」

 長年、その戦う姿を見守ってきた麗子さんは驚く様子はなかったという。

「僕の決断を妻は反対したことはないですね。監督をやる時も伝えてはいたんです。『監督をやるということは川崎をいつか離れることだから覚悟してね』と。その時は『分かりました』と答えてくれていました。ここ1、2年は結果が出ず苦しんでいるんだろうと近くで察していたはずですし、去年、『川崎を離れる日が来たら、そのタイミングで一回、休もうという考えもある』という話もしていたんですよ。その時も僕が家でも仕事をする姿や、リビングで寝落ちしちゃっているシーンを何度も見ているから『良いんじゃないですか』と返してくれていて」

 鬼木監督がこれだけ監督業に専念できた背景には、麗子さんの支えがあったことは間違いない。そしてそれは、家族の存在も同様であった。

 大学生の長男はその時、家にいなかったが、数日後、高校生の次男にも公式発表される前に退任の話を打ち明けたという。

「ご飯を食べている時に妻が『言ったら』と切り出してくれたので、『ん...そうか』と。それで『フロンターレ辞めることになったからね』と伝えたら、次男は『うん、分かった』と。でも、ふと見たら、下を向きながら涙を流してご飯を食べている。それを見た妻も号泣しちゃって...こっちももらい泣きしちゃいましたよね」
【PHOTO】両軍、クラブを発つ監督に勝利を!負けられない最終戦は家長・小林のゴール含む3得点で川崎が有終の美を飾る!|J1第38節 川崎3ー1福岡
 照れくさそうに笑うその横顔には、家族のことを大事に思う父親としての鬼木達の姿が映し出されていた。一方で家族は、そんな父を誇り、そしてフロンターレの大ファンであった。

「子どもたちもフロンターレが大好きで、小さい時からいっつも応援してくれていた。フロンターレを誇りに思ってくれていたからこそ、いろんな感情があったと思うんですよね。それこそ子どもたちは、監督の僕の印象が強いんじゃないですかね。そういう部分もあったと思うんです」

 家族は常に試合を現地かテレビで観戦してくれていたという。また照れくさそうに振り返る。

「うちの家族は、『あれ、俺これから試合があるの分かっている?』っていうような雰囲気でもあるんです。でもそれが自分にとっては楽だったりするんですよね。心のなかでは『俺、大事な試合があるんだけど』とつぶやいたりする時もあるんですが、家族みんなで緊張していたら、自分まで固くなっちゃう。だから家ではリラックスできていましたし、妻は素でやっているような感じもしますが(笑)、かなり助けられました。本当に感謝ですね」

 それこそ、コロナ禍を含め、自分のことを見守ってきてくれたとの想いも強い。

「どちらかというと、うちの家族はみんな自由に過ごしている感じはするんですよ(笑)。でも、家ではそんなにしないですが、試合の前後とかにちょっと僕がピリピリしている時があれば、気を使ってくれているでしょうし、それこそコロナの時ですよね。監督の僕が倒れるわけにはいかないので、結構ナーバスにもなっていて。咳込んでいたりしたら部屋を分けてもらったり、食事を別にしてもらったり、いろいろやってもらっていました。あの時はキツかったですね。家族の絆が希薄になってしまうような気もして。

 でも気付けば長男も、もう大学生ですから。子どもの成長はやっぱり早いですよ。僕は子どもの誇りでありたいと思っていましたし、家族も自分の勝負に徹する部分や、何を大事にしているか理解してくれていた。そういう共有があったからこそ、変なストレスもなく、ここまで監督をやってこられたと思っています」

 監督としての8年はまさに、家族とともに歩んだ道のりでもあった。

 鬼木監督にとって父の存在も大きかったという。

「父は昔の人で、それこそ亭主関白と言われるような存在でした。だから子どもながらに恐がっていた部分もあったんです。小学校の時にサッカーで全国大会に行って優秀選手に選ばれたりもしましたが、父が見に来てくれることはなかったです。ただ、中学時代にサッカーとの向き合い方が微妙な時があって、サッカーより遊びのほうに意識がいった際にはすごく怒られたのを覚えています。

 一方で高校で名門の市船に入れた際にも何か言ってくれることはなかったです。本当、家族みんなが機嫌を気にするような、帰ってきたらテレビのリモコンを渡さなくてはいけないような、そんな父だったんですよ。曲がったことも大嫌いで、挨拶なども大事にし、自分に関係ないことであっても、気になったことがあれば誰でも注意する。そして何より仕事をしっかりする父でした。その影響はかなり大きく受けていますね。

 そんな父が、僕がサッカーでプロになりますって時から急に変わったんですよ。当時はJリーグ元年で、サッカーのプロ選手になれるなんて想像もできなかった時代。でも、父はひとりの社会人として認めてくれたと言いますか。僕の兄は大学に行ったのですが、僕は高卒で鹿島に入団したので、大学費用として貯めていたお金も『お前にやる。それでなんでも良いから買え』と。

 そんな父は車を持っていなかったのですが、当時、歳も取っていたのに、僕が鹿島に入ったら免許を取り、車で鹿島まで応援に来てくれるようになりました。そういう熱量も持っていた人でした。(2017年の川崎での)初優勝の際にもスタジアムに来てくれていたらしいんですよね」
 昨秋、そんな偉大な父との知られざる別れもあった。当時はACLでタイへ遠征に行っている時であった。

「あれは、チャナ(チャナティップ/元川崎)が所属していたパトゥムと対戦した時ですかね。試合前日の朝、父が亡くなったと連絡を受けて。そのあとすぐに公式会見があったんですよ。そこでチャナとも再会して、あの笑顔に少し元気をもらった部分もありました。

 実はタイに行く前に、実家に帰って、父が入院する病院にも行っていたんです。その時は意識がなかったんですが、『これから頑張ってくるよ』と声を掛けたり、お礼を言ったりしました。こういう世界で戦っていると、親の死に目にも会えないことがあると覚悟していましたが、あの時の試合後(4−2で勝利)には、何か心にくるものがありましたね。

 それで帰国してすぐにリーグの柏戦があって、その後に実家に帰ったりしていました。思うところはそりゃありましたが、監督はそこを見せちゃいけない。選手だったら『絶対にすぐ帰れ』って言いますが、監督は別ものですから。

 でも、振り返れば、やっぱり父は背中で見せてくれる人だった。ただ、不思議なんですよ、一緒にいる時には、こういう感じにはなりたくないと思っていたけど、客観的に見ると、頑固なところや、曲がったことが嫌いな性格は、すごく似ちゃっている。一方で息子たちは僕に似ていないような気がするんですけどね(笑)。でも彼らは彼らで本当にまっすぐ育ってくれた。嬉しい限りです」

 勝負師とは常にポーカーフェイスでいなくてはいけないという。そう考えると、監督とはやはり難儀な職業である。鬼木監督は、この8年、その点も常に意識してきたという。

「監督ってやっぱりめちゃくちゃ見られるじゃないですか。例えば、以前に喉を壊して、(寺田)周平(当時コーチ/現・福島監督)に指示を出してもらった時があったじゃないですか。その時も『ストレスが原因か?』なんて言われたりして。実際はただ、喉の調子が悪かっただけなんですよ。でも、監督のちょっとした変化は騒がれてしまう。

 ダイエットをして少し瘦せただけで、調子が悪いのか、とか言われちゃいますしね。だからこそ、体調管理は監督に就任した時から、めちゃくちゃ気を付けてきました。変な話、見た目もいつも若々しくないといけない、と身だしなみも昔より意識したりして。

 それこそちょっと疲れている表情や、なんでもない溜息などを、選手やスタッフが見ると、『あれ?』ってなってしまい、話が広がってしまう。コーチ時代もやっぱりそうした声って耳に入ってくるんですよ。だから、かなり気を付けてきましたね」

 表に見えない努力、涙、葛藤を抱えながら挑み続けてきた監督としての生活。そう考えるだけでもこの8年は尊いものに見えてくる。そして荒波のような日々を乗り越えられたのはやはり家族ら周囲の支えがあってこそだったのだろう。

(第2回に続く)

取材・文●本田健介(サッカーダイジェスト編集部)

■プロフィール
おにき・とおる/74年4月20日生まれ、千葉県出身。現役時代は鹿島や川崎でボランチとして活躍。17年に川崎の監督に就任すると悲願のリーグ制覇を達成。その後も数々のタイトルをもたらした。“オニさん”の愛称で親しまれ、今季限りで退任。