東京で一獲千金狙うも「酷評」店主の痛切な気づき
「新旬屋 本店」店主・半田新也さん。今となっては、ラーメン王国として知られる山形県でも屈指の人気を誇る同店だが、失敗を重ね、客足が遠のいた時期も。東京のイベント出店でも痛い目を見ることになるが、そこから店の再生も始まったのだった(筆者撮影)
「ラーメン王国」と呼ばれる山形県で、とりわけ高い人気を誇る「新旬屋 本店」。県内の人気ラーメン店を決める地元局のテレビ番組では見事1位に輝き、山形市、鶴岡市、酒田市など大きな市の店ではなかったことも含めて、大きな話題となった。
店主は半田新也さん。温泉や道の駅など村の施設を管理する運営会社で働くなかで、今でも人気の特産品「戸沢流冷麺」の開発にかかわったことで製麺に興味を持ち、ラーメン業界に足を踏み入れたという、一風変わった経歴の人物である。
近所から苦情が来るほどの人気だったが…
「新旬屋 麺」が人気になった後、「ラーメンバー」を営業していた半田さん。「新旬屋 麺」は朝11時から夜8時まで、「ラーメンバー」は夜9時から3時までと、文字通り不眠不休の生活だったが、新庄市では珍しい営業スタイルがウケ、店は爆発的な人気を誇った。
だが、オープンから半年もすると、あまりの人気に近所からは苦情が来るようになり、半田さんは2店舗を移転して融合し、昼から夜間まで営業できるお店にリニューアルした。朝11時から夜3時まで中休みなし、定休日なしで営業をした。しかし、これが大失敗となる。
朝から晩まで営業している、ラーメン屋なのか飲み屋なのかわからないお店となってしまった結果、客足が遠のいてしまったのだ。また、時間によって作り手が変わった結果、肝心のラーメンの味のブレ幅も大きくなってしまった。
詳しくは前回の記事で紹介:山形で人気トップ「金の鶏中華」店主の痛恨の失敗 ラーメンバーで成功も、客の気持ちを見失って…
その頃、売り上げを少しでも回復するために山形市にシミュレーションゴルフの会社をオープンし、半田さんは山形市に移ってしまった。本来はラーメンのテコ入れをしなければいけないところだが、足元が見えていなかったのだ。さらに2011年、東日本大震災が起こり、会社全体の売り上げは地に落ちる。
東京でイベントに出店も酷評…
ラーメンもダメ、ゴルフもダメと完全に落ち込んでいる頃、日本ラーメン協会で当時理事をやっていた仙台の名店「五福星」の店主・早坂雅晶さんから、東京・駒沢公園で開かれる「東京ラーメンショー」に出店してみないかという誘いを受ける。
またとないチャンス。当時から日本一のラーメンイベントとも言われていた「東京ラーメンショー」に一獲千金の気持ちでチャレンジしてみることにする。
山形のご当地ラーメンで、蕎麦屋で人気の「鶏中華」をアレンジしたラーメンを作って「東京ラーメンショー2012」に乗り込んだ。とんでもない来客数で、「新旬屋 麺」にも長い行列ができ、初めて出たラーメンイベントでなんと1500杯のラーメンを提供した。
「東京ラーメンショー2012」で提供された鶏中華。半田さん自身、「今思えば自分はなんというラーメンを出していたんだろうと怖くなる」と振り返るが、筆者のメモにも、微妙な感想が残っていた(筆者撮影)
「これほどまでに売れるとは思わず、大満足で帰りましたが、今思えば自分はなんというラーメンを出していたんだろうと怖くなるぐらいです。ネットを見てみると書き込みがひどかったですね。
『まずい』『山形だったらもっと旨い蕎麦屋さんの鶏中華があるだろう』『なんていうラーメンを出してるんだ』と大多数がクレームで、確かに売り上げは上がりましたが満足感がゼロ、逆に言えば悲壮感のほうが大きくてこれはマズいと落ち込みましたね」(半田さん)
結果、自分は人の真似しかしておらず、自分のラーメンが作れていないことに気づいたのである。売り上げも落ちている中、半田さんはラーメン作りを1から考え直し、オリジナリティのある自分だけのラーメンを作ることにチャレンジした。
こうして完成したのが「金の鶏中華」である。
東京ラーメンショー2012での経験を通じて、人の真似ではない、自分だけの一杯を目指すようになった半田さん。その結果、「金の鶏中華」が生まれることとなった(筆者撮影)
旧来の蕎麦屋の鶏中華ではなく、ラーメン屋の作り方で鶏中華を作ったらどうなるんだろうというトライアルである。蕎麦ダレは使わず、鶏のスープに醤油と塩のカエシを加えたラーメンらしい鶏中華を仕上げた。この「金の鶏中華」を2013年から提供し始める。
「蕎麦屋の鶏中華とも違う、とりもつラーメンとも違う、何だこれは」という批判がたくさん来たが、半田さんは何か新しいことをすれば批判は必ず出てくることを受け入れ、せっかく自分で作り上げた一杯をもっと美味しくしようと努力した。
そこで閃いたのが、注文が入ってからスープに生の鶏肉を入れて一杯ずつ小鍋で作るという製法だ。通常のチャーシューを注文を受けてから作ることは不可能だが、鶏肉なら直前に火入れすることでフレッシュな味を出せる。スープとともにカエシも一緒に入れて鶏肉を煮込むことで、カエシの味も鶏に入るし、鶏肉の旨味も一気にスープに広がる。これは一石二鳥だ。こうして「金の鶏中華」はだんだん進化を遂げていく。
名古屋のラーメンイベントで「金の鶏中華」を提供したとき、一杯ずつ小鍋で作っていたらお客さんを待たせてしまい、やむなく事前に火入れして味付けした鶏肉を使うことになった。売り上げは上がったが決して満足感は得られず、自分の作りたいラーメンの方向性を改めて知ることになった。
翌日からオペレーションを戻し、一杯ずつ小鍋で仕込むことに。杯数は落ちてしまったが、妥協せず美味しい一杯を提供することが自分のやるべきことだと再認識した。
「今でもイベントに行くたびに、一つ一つ鍋で作っててバカじゃないの?と言われるのが嬉しくて(笑)。1500杯でも1600杯でも小鍋で一杯ずつ作って美味しい一杯を提供してきたことで今があります。
いろんなイベントや百貨店の催事にも呼んでいただき、全国の方が『金の鶏中華』を知ってくださったんですよね。著名な方も来てくれましたし、東京のイベントで食べて美味しかったのでと新庄まで食べに来てくれる人もたくさんいるんです」(半田さん)
「大つけ麺博」で、「金の鶏つけ中華」が大当たり
「大つけ麺博」では「金の鶏つけ中華」を作り、これも大当たり。
「大つけ麺博2018」で提供された「金の鶏つけ中華」(筆者撮影)
地元ではまだまだとりもつラーメンや蕎麦屋の鶏中華のほうが人気が根強かったが、イベントでの反響から2015年頃から地元のメディアにも少しずつ取り上げられるようになった。
一気に火が点いたわけではなかったがじわじわとお客さんが増えてきたのである。半田さんはシミュレーションゴルフの店を従業員に預け、毎日山形市から1時間半かけて新庄の店まで通い、「金の鶏中華」をブラッシュアップさせていった。
定休日と中休みを作って仕込みにも時間をかけるようになったら、営業時間は短くなったのにさらに売り上げが上がっていった。しまいには売り上げが倍になり、半信半疑から確信に変わった。
こちらは「新旬屋 本店」の外観(筆者撮影)
2018年には店舗をさらに駅前に移転し、社屋を建てる。店名は「新旬屋 本店」とした。「金の鶏中華」をメインにし、他のメニューは曜日限定にするなどして、味作りも1から見直して改良を重ねた。
深夜営業から、三毛作営業へと変化していく
2019年には「東京ラーメンショー」で最優秀賞を受賞し、さらに注目された。売り上げの3割を占めていた深夜営業をやめて朝ラーメンに切り替え、「煮干中華蕎麦 あらた」という店名で二毛作営業に、2020年には夜を「極中華蕎麦 ひろた」とし三毛作営業とし、さらに人気となる。
朝営業の「煮干中華蕎麦 あらた」では煮干のきいた「シンちゃんらーめん」を提供(筆者撮影)
いよいよここからと張り切っていた中で新型コロナがぶつかる。東日本大震災以来の大ピンチに陥っている中、使われていない座敷席、小上がり席をやめ、思い切ってその部分を工場にした。
店を2カ月休業し、工場部分の建設と、コロナに合わせてお客さんが提供口に取りに来るセルフサービス方式に店のレイアウトを変更した。
「これが今はうちの財産になっています。コロナ禍でお店が営業できないときに、どうやってお客さんに旨いものを届けるかを真剣に考えたんですよね。お土産ラーメンや冷凍麺などはコロナ禍で生まれたものなんです」(半田さん)
ワンタンメン「雲海」にはしなやかな乾麺を使用(筆者撮影)
さらには乾麺に注目し、地元の製麺所・酒井製麺所で特注麺を作り、ワンタンメン「雲海」を提供。
お店で乾麺を使うという珍しい動きに驚いたが、この麺の唯一無二のしなやかさに業界は騒然となった。これがきっかけでお土産用の乾麺が生まれ、全国のラーメン店の監修商品の開発が始まっている。
コロナに合わせてセルフサービス方式に店のレイアウトを変更(筆者撮影)
なぜ、「新旬屋」が山形県民の人気No.1になれたのか。半田さんはこう振り返る。
「やっぱり『金の鶏中華』を毎年美味しくしていっているからだと思います。進化しないで守ることも大事なんですけど、美味しく進化させるということがもっと大事だと思っています。
老舗といわれて今も大繁盛しているラーメン屋さんって多分我々の知らないところで味が変わっていっていると思うんですよね。うちも毎年毎年美味しくなるように変えていったら、6割ぐらいのお客さんが『金の鶏中華』をオーダーしてくれるようになったんです。はじめは批判されていたものが、地元の方にもしっかり受け入れられるようになったんです」(半田さん)
食べるたびに進化している「金の鶏中華」(筆者撮影)
半田さんは「東京ラーメンショー」に出店してから景色が変わり、山形県のラーメン自体をもっとアピールするべく、他エリアのラーメン店を巻き込んだ活動を通じて県全体でラーメンを盛り上げる動きを始めている。
イベントで博多ラーメンや札幌ラーメンに比べて圧倒的に認知度が低いことを知り、「ラーメン王国」としてのアピールをもっとしていくべきというマインドになったという。
地元産の「さくらんぼ鶏」や、麺にも地元産の「ゆきちから」を使い、山形の食材をふんだんに使った「金の鶏中華」にパワーアップしている。ラーメンを通じて他県から山形に来る人が増え、山形県全体を盛り上げることを目指している。
彼のラーメンで、笑顔が広がっている
2012年からは山形県内にある児童養護施設の子どもたちを毎年お店に招待し、ラーメンを振る舞っている。もともと東洋水産のカップラーメン企画の優勝賞金を使って、カップラーメンを配りお店に招待したのがきっかけだった。2021年には、県内5つの児童養護施設に自転車を数台ずつ寄付すると、鶴岡市の子どもたちがその自転車に乗って60キロ離れた新庄のお店までお礼に来たという。
「涙が出そうでした。ラーメン一杯でこれだけの笑顔を作れるんだと、ラーメンって本当に凄いなと思いましたね。
はじめは自己満足みたいな感じの活動だったんですが、ラーメンひとつでこんなに子どもたちの笑顔が作れて、自転車で楽しく学校に行けたとか最高じゃないですか。
この中のひとりでも将来ラーメン屋になりたいなと思ってくれたりでもしたら本当に嬉しいですよね」(半田さん)
ラーメンが人生を変えてくれた半田さんの利他の精神。ラーメン界への恩返し、地元への恩返しというその熱い心が人気No.1を呼び寄せたのだろう。
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(井手隊長 : ラーメンライター/ミュージシャン)