【ジャニーズ崩壊騒動の裏で…】いま明らかになる「ジャニーズの隠れた父」の正体と華麗なる生い立ち

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「父性の欠落」という疑問

旧ジャニーズ事務所の藤島ジュリー景子社長が、突如、謝罪動画を公開したのは、昨年5月のことだった。

私はその衝撃を「昭和天皇の人間宣言」にたとえた。これを受けて作家・高橋源一郎氏は「太平洋戦争敗戦の玉音放送」になぞらえている。

いずれにせよ、戦前の皇室とも等しい不可侵な存在としてジャニーズ・ファミリーを捉えていた。ジャニー&メリー喜多川の創業姉弟も、後を継いだ藤島ジュリー景子も、それまで私たちにとって未知の存在で、声も動く姿もまったく知らなかったのだから。

ここでハタと気づいたことがある。

メリー喜多川と娘のジュリー景子、さらにSMAPの敏腕マネージャーだった飯島三智……という3人の女性がいる。

そうしてジャニー喜多川は生涯独身で、子供を持たなかった。少年たちに対する性加害を犯した同性愛者として、没後に告発されたのだ。

つまり、3人の女性と1人のゲイ……そこには「父」がいない。ジャニーズ事務所には母性は存在しても、「父性」が決定的に欠落しているのだ。

いや、はたしてそうだろうか?

メリー喜多川の娘であり、ジャニー喜多川の姪である、ジュリー景子が後継者となった。

すると、「藤島」というその姓は?

メリーの夫――

藤島泰輔

そう、ジュリー景子の父親である。

なるほど、この藤島泰輔こそが、実はジャニーズの隠れた「父」だったのだ!

昨年以来、日本を揺るがしたジャニーズ問題で、なぜかこの藤島泰輔についてはまったく報じられなかった。あれほどの過剰報道であったのに。ひどく奇妙な話である。

ジャニーズ問題という不可解な謎のジグソーパズル、その欠落したワンピースこそが、これではないか?

私たちは今、この隠れた「父」の正体を明かさなければならない。

「上皇陛下」とのつながり

藤島泰輔は、昭和8年(1933年)、東京に生まれた。日本銀行監事・藤島敏男の長男である。大学卒業後、東京新聞社に入社して社会部の記者となった。

昨年のジャニーズ会見で東山紀之に対して「俺のソーセージを食え」発言で物議をかもし、NG記者となった東京新聞社会部・望月衣塑子記者の大先輩こそが、なんとジュリー景子社長の父親だったのは面白い。

藤島は入社2年目(1956年)、新人記者の身で小説を出版した。

題して、『孤獨の人』。

その扉を開くと――

〈心からなる敬意と友情をもって
この書をクラスメート
皇太子殿下に捧ぐ〉

なんということだろう! 藤島は初等科から大学まで学習院に通った。当時の皇太子、すなわち先の天皇、現・上皇陛下の幼き日から御学友だったのだ。

上皇陛下でさえテレビはご覧になるだろう。昨年、ニュース番組でジュリー景子が謝罪する動画や記者会見の様子が盛んに流された。それをご覧になった上皇陛下は「ああ、クラスメートの藤島の娘だ……」と思われたに違いないのである。なんとも感慨深い。

『孤獨の人』は、学習院高等科を舞台に描いた青春物語だ。若き皇太子その人も登場する。いわばモデル小説だった。

その題材のキャッチーさがセンセーションを呼び、週刊誌で大特集が組まれ、国会で取り上げられる騒ぎとなった。たちまちベストセラーになったのだ。

出版翌年(1957年)には西河克己監督によって映画化もされている。若き津川雅彦や小林旭らが学習院高校生に扮して、話題を呼んだ。

藤島と同学年の石原慎太郎が前年、『太陽の季節』で芥川賞を受賞、こちらも映画化されて太陽族ブームを巻き起こす。藤島と石原は友となった。後に石原は初代ジャニーズの曲(『焔のカーブ』)を作詞する。また石原が政界進出した時(1968年)には、藤島が選挙参謀となった。共に保守派(自民党)で、タカ派的主張の論客になる。

意外な出会いの場……!

1974年9月22日発行の女性週刊誌「微笑」の記事がある。

<緊急インタビュー 郷ひろみ育ての親と再婚した作家・藤島泰輔氏に直撃訪問!>

の大見出しが踊る。

郷ひろみ育ての親とは<メリー喜多川さん(41歳)>とのことだ。

昭和35年頃、メリーは四谷に深夜スナック「スポット」を開いていた。そこの客として「同い歳」の藤島と出会ったという。

(実はこの記事の「41歳」「同い歳」の記述は誤りであり、「47歳」「6歳下」が正しい。メリーは年齢を6歳若く詐称していたようだ)

二人の子供、景子が生まれるのは、1966年7月のことである。ここで問題になるのは、その時、藤島には別の妻がいた(なんと文豪・高浜虚子の孫娘であった!)。

つまり景子は非嫡出子、いわば不倫女性の子供として生まれた。メリーは周囲に娘の存在を知らせず、“隠し子”である。

先の記事によると、1972年に藤島は前妻と離婚、1973年からメリーと娘・景子と同居しているという。不倫出産の末の略奪婚だ。

いや、同記事で藤島は「再婚といっても、まだ入籍などはしていないんです」と明かしている。当時、景子は8歳だった(前年、6歳の時に“フジシマ ジュリー”の芸名でフォーリーブス主演のミュージカル『見上げてごらん夜の星を』に出演、芸能界デビューを果たしている)。

三島由紀夫との「接点」

藤島泰輔は既に記者を辞め、売れっ子作家になっていた。政財界とのつながりも深い。1977年の参議院選挙では、自民党公認で全国区で出馬している(落選)。

渡辺プロダクションの傘下にあったジャニーズ事務所が、法人化して独立したのは1975年である。当時は「ナベプロ帝国」(竹中労)と呼ばれた渡辺プロによる圧力はなかったのだろうか?

ナベプロ社長・渡辺晋の肝入りで設立された業界の圧力団体・音事協の初代会長は、自民党の中曽根康弘だった。藤島は中曽根のブレーン(相談役)である。ジャニーズ事務所は音事協に加入していない。渡辺プロからの独立、それでも業界の圧力を回避できたのは、初代音事協会長・中曽根康弘と藤島泰輔の交流による水面下でのパワーゲームがあったからではないか?

また、一説にはまだ弱小プロだったジャニーズ事務所に、藤島は相当額の支金を援助したともいわれている。

しかし、膨大な著作を持つ彼ではあるが、この辺の事情、ジャニーズとのつながりを記した文章を見つけられない。

藤島泰輔が、ジャニーズの「隠れた父」であるとは、こういう由縁なのだ。

藤島の出世作となった小説『孤獨の人』。同性愛のはびこる少年たちの小サークルは、後のジャニーズを思わせる。同性愛と天皇。この主題をめぐる作家がいた。藤島の学習院の先輩であるその人こそが、『孤獨の人』に序文を寄せているのだ。

――三島由紀夫である。

取材・文:中森明夫