本塁打&盗塁の「54‐59」は、どちらもメジャーリーグ2位の快挙(ロサンゼルス・ドジャース公式Xより)

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 ドジャース・大谷翔平が今季、日本人初のトリプルスリー(打率.310、54本塁打、59盗塁)を達成した。本塁打&盗塁の「54‐59」は、どちらもメジャーリーグ2位の快挙。両部門で2位に入ったのは、1909年のタイ・カップ以来115年ぶりの偉業だった。一方、NPBに目を転じると、大谷の記録には及ばないものの、本塁打と盗塁の両部門で画期的な数字を残した名選手も少なくない。【久保田龍雄/ライター】

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“メジャーに一番近い男”

 最も大谷に近いと言えそうなのが、西武時代の秋山幸二である。入団7年目の1987年に43本塁打で初の本塁打王を獲得し、盗塁も38の「43‐38」をマーク。初の20盗塁以上を記録した前年も「41-21」だったが、翌88年も「38-20」と本塁打と盗塁を両立し、チームの3年連続日本一に貢献した。

本塁打&盗塁の「54‐59」は、どちらもメジャーリーグ2位の快挙(ロサンゼルス・ドジャース公式Xより)

 そして、「31-31」の89年には、打率も初の3割(.301)に到達し、NPB史上5人目のトリプルスリーを達成。“メジャーに一番近い男”と呼ばれた。

 さらに翌90年には、51盗塁で初の盗塁王に輝き、35本塁打と併せて「35‐51」を達成した。

 主軸を打っていたため、走れる状況が限られていたが、もし、今季の大谷のように1番を打っていたら、おそらく、「40-50」も夢ではなく、通算盗塁数303(歴代30位)も、もっと増えていたことだろう。

30年前にはなかった「トリプルスリー」という概念

 秋山以前では、同じく走攻守三拍子揃ったオールラウンダー、阪急・簑田浩二の名前が挙がる。

“世界の盗塁王”福本豊のあとの2番を打った1980年に長打力が覚醒し、31本塁打、39盗塁、31犠打というNPBで唯一の“変則トリプルスリー”を達成した。同年は福本も54盗塁で11年連続盗塁王に輝くとともに、自己最多の21本塁打を記録。「21-54」の福本、「31-39」の簑田の強力1、2番は、相手投手にとって脅威だった。

 翌82年にも「22-27」を記録した簑田は、3番に定着した83年に打率.312、32本塁打、35盗塁で、30年ぶりに史上4人目のトリプルスリーを達成。30年前はトリプルスリーという言葉自体が日本になかったため、“認定第1号”と言えるだろう。

 だが、同年の「32‐35」を最後に、翌84年以降は故障などから盗塁数が激減し、「20−20」超えは3シーズンにとどまった。

 簑田以前のトリプルスリーは、いずれも2リーグ制が始まった1950年から55年にかけて記録されている。

走れるホームランバッターは意外と多い

 まず、50年に毎日の3番打者・別当薫が、43本塁打でパ・リーグの本塁打王を獲得し、打率.335、34盗塁の「43‐34」、松竹の4番・岩本義行(打率.319、39本塁打、34盗塁)とともに、NPB史上初のトリプルスリーを達成した。

 さらに同年は、セ・リーグの本塁打王、小鶴誠(松竹)も28盗塁を記録し、「51‐28」。このほか、セの首位打者・藤村富美男(阪神)が「39-21」、青田昇(巨人)が「33-29」、川上哲治(巨人)が「29-34」、飯田徳治(南海)が「23-30」、戸倉勝城(毎日)が「21-22」と、各チームの主軸打者が、本塁打、盗塁両部門で画期的な数字を残している。

 西鉄黄金時代の主砲で、4年連続を含む5度の本塁打王に輝いた中西太も、174センチ、93キロというずんぐりむっくりの体型ながら、意外に俊足で、入団から6年続けて二桁盗塁を記録。1953年には、本塁打王(36本)とリーグ5位タイの36盗塁の「36-36」、さらには打点王(86打点)も獲得し、打率.314で史上3人目のトリプルスリーを達成した。

 その後も54年に「31-23」、55年に「35-19」と、盗塁数は年々減っていったものの、“走れるホームランバッター”をアピールしている。

実は盗塁も上手かった「長嶋茂雄」

 長嶋茂雄も若い頃は俊足でならし、ランニングホームランを通算3本記録している。
巨人入団1年目の1958年は、29本塁打、92打点で本塁打王と打点王の二冠に輝いているが、盗塁数もリーグ2位の37をマーク。「29-37」というなかなかの数字を残している。

 ちなみに同年の長嶋は、打率もリーグ2位の.305(首位打者は阪神・田宮謙次郎の.320)だったが、9月19日の広島戦で5回に左中間に28号ソロを放ちながら、一塁ベースを踏み忘れ、“幻弾”(記録は投ゴロ)となったことから、最終的に30本塁打の大台に1本足りず、惜しくもトリプルスリーを逃した。

 長嶋はその後も2年連続首位打者に輝いた60年にも、リーグ2位の31盗塁を記録するなど、プロ入り後の最初の5年間で通算121盗塁と韋駄天ぶりを発揮している。

 東映時代の張本勲も、1963年の「33‐41」をはじめ、同一シーズンで20本塁打、20盗塁以上を記録すること5回。通算打率.319(歴代3位)、504本塁打(同7位)、319盗塁(同27位)は、いずれも前出の秋山を上回っている。

 1970年代以降、走れるホームランバッターはほとんど見られなくなったが、77年に広島・山本浩二が「44‐22」を記録。これとは逆に、盗塁のスペシャリストが本塁打を量産した例もあり、広島時代の高橋慶彦が83年に「24‐70」、85年に「24-73」、大石大二郎(近鉄)も84年に「29-46」をマークした。

近年の選手では…?

 近年では、トリプルスリーを3度記録したヤクルト・山田哲人の存在が際立っている。
2015年に「38‐34」で本塁打王と盗塁王をダブルで獲得し、チームの14年ぶりVに貢献。その後も16年に「38−30」(盗塁王)、18年に「34−33」(盗塁王)、19年にも「35‐33」と“ミスタートリプルスリー”の名にふさわしい数字を残している。

 このほか、トリプルスリー達成者では、1995年の野村謙二郎(広島)が「32‐30」、2000年の金本知憲(広島)が「30-30」、2002年の松井稼頭央が「36-33」、2015年の柳田悠岐(ソフトバンク)が「34-32」を記録している。

 ちなみに今季、NPBで本塁打と盗塁の両部門で二桁以上を記録したのは、村上宗隆(ヤクルト)の「33-10」、牧秀悟(DeNA)の「23-11」、近藤健介(ソフトバンク)の「19-11」の3人だけ。今後、大谷の域に迫る選手は現れるだろうか?

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

デイリー新潮編集部