じつは多くの人が見落としている、人生で「成功する人」と「失敗する人」の決定的な違い

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わたしたちはいつまで金銭や時間など限りある「価値」を奪い合うのか。ベストセラー『世界は経営でできている』では、気鋭の経営学者が人生にころがる「経営の失敗」をユーモラスに語ります。

※本記事は岩尾俊兵『世界は経営でできている』から抜粋・編集したものです。

〈世界から経営が失われている。

本来の経営は失われ、その代わりに、他者を出し抜き、騙し、利用し、搾取する、刹那的で、利己主義の、俗悪な何かが世に蔓延っている。本来の経営の地位を奪ったそれは恐るべき感染力で世間に広まった。〉(『世界は経営でできている』より)

この国には、経営が足りないのかもしれない。

経営が足りなくて、何が困るのかと思う人もいるだろう。

『世界は経営でできている』では、「仕事にかぎらず、恋愛、勉強、芸術、科学、歴史……などあらゆる人間活動で生じる不条理劇は「経営という概念への誤解」からもたらされる」と主張される。

いったい、どういうことだろうか。

〈「飲食店で注文した品がなかなか出てこずにイライラする」場面だ。こんなありふれた日常にも経営が潜む。

しびれを切らし、ウェイターに「あの、○○を注文したはずですけど」とたずねる。だが、「いま作ってますから」と素っ気ない返事しかもらえない。

それから三十分以上経ってようやく○○と対面できた頃には、こちらも「つまみとして頼んだのに、もうお酒も飲み終わったし、いらないですよ」と嫌味になる。

(中略)

この場面で我々(客)がウェイターに対して怒るのは実は不合理だ。責任が存在し

ない場所に無意味な不満をぶつけているためである。〉(『世界は経営でできている』より)

〈お次は、どこかから派遣されてきた役員が「競争意識が足りない。今度からは毎月

の報告会で営業成績が平均未満の人間はクビだ」と宣言した状況だ。

すでに大笑いされている方は鋭い。

この発言は論理的に根本から間違っている。しかし、こんな馬鹿なことを本気でやる会社がある。恐ろしいことにむしろ多数派でさえある。

(中略)

この集団は放っておけば一ヵ月で半分、二ヵ月経てば四分の一、三ヵ月すれば当初の八分の一になり、これを繰り返せば逆・幾何級数的にあっという間に営業部隊は一人になる。〉(『世界は経営でできている』より)

人生がうまくいかないワケ

『世界は経営でできている』では、一見経営に関係のないテーマを取り上げ、それらに経営を見出すことで、誰もが人生を経営していることを示す。

経営=企業・お金儲け、というイメージを覆し、経営とその思考をみんなのものにする必要がある。

誤った経営概念をもったままでは、人生に不条理と不合理がもたらされ続ける。つまり、「経営思考」を携えているかどうかで、人生がうまくいくかどうかが左右されるともいえる。

〈経営するのは企業だけだと思い込むのは無知と傲慢のなせる業だ。学校経営、病院経営、家庭経営……はどこに消えたのか。むしろ世の中に経営が不足していることこそが問題なのである。現代の学校や病院や家庭が不合理の塊なのは誰もが知っていることではないか。

また人類のさまざまな側面に関わる広義の経営において、利益・利潤や個人の効用増大が究極の目的になりえないのも明らかだ。比較的それらを重視する企業経営においてさえ、本来それらは二次的な目的にしかなりえない。

結論を先取りすれば、本来の経営は「価値創造(=他者と自分を同時に幸せにすること)という究極の目的に向かい、中間目標と手段の本質・意義・有効性を問い直し、究極の目的の実現を妨げる対立を解消して、豊かな共同体を創り上げること」だ。

この経営概念の下では誰もが人生を経営する当事者となる。

幸せを求めない人間も、生まれてから死ぬまで一切他者と関わらない人間も存在しないからだ。他者から何かを奪って自分だけが幸せになることも、自分を疲弊させながら他者のために生きるのも、どちらも間違いである。「倫」理的な間違いではなく「論」理的な間違いだ。〉(『世界は経営でできている』より)

つづく「老後の人生を「成功する人」と「失敗する人」の意外な違い」では、なぜ定年後の人生で「大きな差」が出てしまうのか、なぜ老後の人生を幸せに過ごすには「経営思考」が必要なのか、深く掘り下げる。

老後の人生を「成功する人」と「失敗する人」の意外な違い