「この食べ物、好き」と言わず「この食べ物、おいしい」と言うとき、私たちが「じつは狙っていること」

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自分の言ったことがうまく伝わらない、何回言ってもわかってもらえない……言葉を使ったコミュニケーションというのは難しいものです。

人と人とが言葉のやりとりをするとき、そこではいったいなにが起きているのか? 日常的なやりとりを題材に、コミュニケーションについて真剣かつ軽やかに考えるエッセイ『言葉の道具箱』が話題になっています。

著者は、大阪大学講師で、「言語哲学」という分野を研究している三木那由他さんです。

たとえば同書には、三木さんがお友達に「レンコン団子」の美味しさを食レポで伝えようとするけれど、どうしてもそれがうまくいっている感じがしなかったという話が出てきます。

話は展開していき、食べ物を「好き」と言うことと「美味しい」と表現することの違いについて、哲学者のカントの議論を引きながら、以下のような明晰な解説がなされるのです。

同書より引用します(読みやすさのために一部編集しています)。

〈何かを美しいと見なすような判断を、カントは「趣味判断」と呼ぶ。カントは『判断力批判』(Kritik der Urteilskraft)という著作で、この趣味判断なるものがいったいいかなる判断なのかを論じている。そのなかに、趣味判断には普遍的同意の必然性が含まれるという議論が出てくる。

我々は、或る種の判断によって何か或るものを美と断定する、そしておよそこの種の判断においては、ほかの人達が我々と異なる意見をもつことを許さない、それにも拘らず我々の判断は概念に基づくのではなくて、まったく我々の感情に基づいて行われるのである。(『判断力批判(上)』篠田英雄訳、岩波文庫、一九六四年、一三五頁)

例えば、私はムンクの『マドンナ』が美しいと思っている。この「美しいと思っている」というのが趣味判断なのだが、私が「『マドンナ』は美しい」という判断をしたのは、『マドンナ』を見て私が「いいなあ」と感じたからであって、その意味でこれはあくまで私の主観的な感情に基づく判断だ。

けれど、「『マドンナ』は美しい」という判断は、単に「私は『マドンナ』を見ると幸せな気持ちになる」ということではなく、きっとそこには「誰だってこの絵を見ると幸せな気持ちになるはずだ」という考えも含まれているだろう。だからこそ、「私は好き」ではなくわざわざ「美しい」という言い方をしているのだ。その点で「『マドンナ』は美しい」という判断は、異なる意見を許さず、「誰でもこれに合意するはずだ」という意味合いを帯びている。〉

〈「美味しい」も、こうした趣味判断の一種と見なせるだろう。だとすると、「レンコン団子は美味しいんだよ」という発言も、相手の合意を求める側面を持っていると言えそうだ。

要するに、「三木がレンコン団子を美味しいと信じているものとして、今後は振る舞いましょうね」ではなく、「二人ともレンコン団子を美味しいと信じているものとして、今後は振る舞いましょうね」という合意が得られて初めて、レンコン団子の美味しさがちゃんと伝わったことになるのだろう。

そのためには、「友人がレンコン団子を美味しいと信じているものとして、今後は振る舞いましょうね」という合意も必要になるのだが、「なるほど、あなたはレンコン団子が美味しいと思うんだね。でも私は別に食べたいとは思わないな」という友人の発言からはこの合意への拒絶の意志が表れていて、きっとそれが「伝わっていない」感覚を生じさせているのだ。〉

自分たちがコミュニケーションをするときに、暗黙のうちにおこなっていることが見事に言葉にされていると思いませんか? 本書を手元に、自分のコミュニケーションを振り返ってみるのも楽しいかもしれません。

【つづき】「「ケーキ、もう半分しかないよ」と「まだ半分あるよ」…その「言い方の違い」が生み出している「意外な効果」」でも、三木さんがコミュニケーションについて考察をします。

「ケーキ、もう半分しかないよ」と「まだ半分あるよ」…その「言い方の違い」が生み出している「意外な効果」