「ニンジン泥棒三人組」代助・五八・吉郎次は、なぜわざわざ自首したのか…「犯科帳」から浮かび上がる「江戸社会のリアル」

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江戸時代の裁きの記録で現存しているものは、現在(2020年5月)、たった3点しか確認されていない。その一つが、長崎歴史文化博物館が収蔵する「長崎奉行所関係資料」に含まれている「犯科帳」だ。3点のうちでもっとも長期間の記録であり、江戸時代全体の法制史がわかるだけでなく、犯罪を通して江戸社会の実情が浮かび上がる貴重な史料である。

江戸時代の社会は、戸籍の役割を果たした「人別帳」と、相互扶助と同時に連帯責任のための組織としても機能していた「五人組」によって、互いに監視しあう仕組みが巧妙に構築され、機能していた。

この「監視社会」の効果の一つが、犯罪者の自首を促すことであった。

ニンジンを盗んだ代助、五八、吉郎次の3人組の場合を見てみよう。

【本記事は、松尾晋一『江戸の犯罪録 長崎奉行「犯科帳」を読む』(10月17日発売)より抜粋・編集したものです。】

大人参2包が突然消えた

「監視社会」は、罪を犯した者に自首、当時の言葉では「自訴」を促す効果、また密告を促す効果もあった。実際の事例を見てみよう。

享保18(1733)年11月頃、新地蔵〈しんちぐら〉(唐人との交易品を保管しておくために長崎港の埋め立て地に造られた蔵)に収めてあった大人参2包が紛失する事件が起きた。不思議なことに、蔵戸の前の封印には特に変わったところもなく、それ以外にも盗人が入ったような形跡もなかった。荷役が土蔵に入れる際に紛失したのかもしれないと思って調べたがわからず、手詰まりとなっていた折、新地蔵番所で小使を務めていた椛島町の代助、五八、吉郎次の3人が蔵支配頭人に自首し、それが奉行所に報告された。

じつはこの3人、問題とされていた、件〈くだん〉の大人参2包を盗んだのではなかった。彼らが自訴した犯罪は、それとは別の、享保19年7月9日夜に行った盗みであった。3人は、同年の20番船(その年の20番目に入港した唐船。以下の「何番船」の場合も同様)の荷物が入れられていた土蔵の屋根に上って瓦を除け、裏板をはがして2階に侵入した。よほど身軽な者たちだったのだろう。蔵に櫃〈ひつ〉があったので開けてみると人参4包があったので盗み出した。そして屋根は元のように板をはめて瓦を置き、わからないようにしたのである。この一件、明るみに出ていないところをみると、相当うまく隠したのだろう。

盗み出した人参は小川町の藤七方に持ち込んで、小人参およそ420目余を銀2貫200目余で売り払って3人で山分けした。今回の事件の捜査で自分たちの犯罪も露見することを恐れて自訴に及んだのだろう。彼らは自訴したことで死罪を免れ、薩摩への流罪となった。

話を大人参の件に戻すと、小人参泥棒の三人が「差口〈さしくち〉」、つまり密告した。おそらく彼らは、自らの罪を軽減するために密告を選択したのだろう。両事件で人参の取次と買い取りに関わった藤七(流罪)から情報を得たのかもしれないが、詳細は不明である。犯人は、すべて唐船貿易の倉庫(現在の長崎中華街辺り)を管理していた新地蔵定雇番人で、外浦町の太惣次、伊勢町の善平次、今町の伝次郎、材木町の役平次の4人であった。

詮議により、以下が明らかとなった。

4人で申し合わせて24番唐船の荷物の収められた蔵戸前の封印を解き、合鍵で開けた。そして伝次郎と役平次が外で見張っているあいだに太惣次と善平次が2階に上り人参2包を持ち出した。戸前の封は両端を糸でつないで元のように見せかけた。

持ち出した人参は太惣次が本紙屋町の弥右衛門に取り次ぎを頼み売り払った。大人参2包で代銀は4貫目になった。この4人は同様の手口で享保17(1732)年冬に1度、同18年春夏の2度、新地蔵に盗みに入ったことも白状した。この件は江戸に伝えられ、下知により、享保19年正月26日、4人は獄門、取り次いで人参を売り払った弥右衛門も死罪に処された。

一連の事件では、このほか盗品を買い取った者など26人が捕らえられたり刑罰を受けたりしている。これら逮捕者から、盗品の流通ルートが辿れたのだった(森永種夫編『長崎奉行所判決記録 犯科帳』(一)三〇八〜三一三頁)。

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