W杯予選で日本を苦しめたオーストラリア・サッカーのルーツと悩み

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なぜオーストラリアが“アジア予選”に出場しているのか

W杯アジア予選を戦っているサッカー日本代表は、10月シリーズではアウェーのサウジアラビア戦には2対0で完勝した。ホーム・オーストラリア戦ではDF谷口彰悟のオウンゴールで先制を許してしまったが、交代で入った中村敬斗がキレのあるドリブルで崩して相手のオウンゴールを誘発して、引き分けに持ち込んだ。

4試合を終えて日本は3勝1分の勝点10。2位オーストラリアとは勝点5の差を付け、独走状態は続いている。

オーストラリアのシュートは1本だけで、内容的には日本が圧倒した試合だったが、5人のDFを並べた守備を崩せずに苦戦した。気温が30度を超えた中でのサウジアラビアとのアウェー戦の後、長距離移動を強いられたことで疲労が溜まり、攻撃陣がキレを欠いていたことが、苦戦の原因だった。

ところで、オーストラリアはなぜ“アジア予選”に出場しているのだろうか?それは、それまでオセアニア・サッカー連盟(OFC)に加盟していたオーストラリアが、2006年にアジア・サッカー連盟(AFC)に加盟したからだ。

2006年ドイツW杯では、日本は初戦でオーストラリアに1対3で逆転負けした。本来、グループリーグでは同大陸の相手とは対戦しない規定なのだが、この時のオーストラリアはオセアニア予選を勝ち抜いて出場していたので、対戦が実現したのだ。

AFCへの転籍は、オーストラリア・サッカー界が2005年に進めた改革の一環だった。

オーストラリアでは、かつてサッカーは「欧州系移民のスポーツ」と考えられていた。主流を占める英国系国民の間では、ラグビー系のフットボールとクリケット人気が圧倒的に高かったからだ。

欧州移民のスポーツ

メルボルンがあるビクトリア州では、この国独自のオーストラリアン・ルールズ・フットボール(オージーボール)がナンバーワン・スポーツだった。アイルランド移民が持ち込んだフットボールを改良した競技で、楕円形のクリケットグラウンドを使って行われ、激しい肉弾戦を特徴とする球技だ。そして、その他の地域では13人制のリーグ・ラグビー、15人制のユニオン・ラグビーが盛んだった。

この国では、冬はこうした各種のフットボール。そして、夏はクリケットというのが定番だった。

サッカーは、欧州移民のスポーツだった。

第2次世界大戦中、オーストラリアは北部ダーウィンで日本軍の空襲を受け、シドニー湾も特殊潜航艇の攻撃に遭遇した。そして、戦後も独立したばかりのインドネシアと対立することになる。

人口の多いアジア諸国と対峙するオーストラリアは当時、人口が1000万にも満たなかった。そのため、人口増を目指して欧州大陸からの移民を受け入れたのだ。

経済的に苦しかった南欧、東欧諸国から移民がやって来た。そうした人々が母国で盛んだったサッカーをプレーしていたのだ。

オーストラリアの国民的スポーツに

たとえば、1974年の西ドイツ(当時)W杯に初出場したオーストラリア代表のマンフレード・シェファー主将は、ドイツ生まれだったので、西ドイツの新聞などでも大きく取り上げられていた。

また、かつて横浜F・マリノスの監督を務めたアンジェ・ポステコグルーはアテネ生まれで、5歳の時にオーストラリアに渡ってきたギリシャ移民だった。現在のオーストラリア代表監督トニー・ポポヴィッチは、シドニー生まれのクロアチア系二世だ。

そのため、オーストラリアではイタリア系の「マルコーニ」、ギリシャ系の「シドニー・オリンピック」、ハンガリー系の「セントジョージ・ブダペスト」といった、各民族のルーツを示すような名称を持つクラブが数多くあった。

こうした状況を打破してサッカーをオーストラリアの国民的スポーツにしようというのが、2005年の改革だった。

きっかけは2002年に日本と韓国で開催されたW杯だった。ほとんど時差のない大会だったので多くのオーストラリア人がテレビで観戦し、サッカーへの関心が高まったのだ。

オーストラリア・サッカー協会は「フットボール・オーストラリア」と改称。それまでのNSLに代わって、新リーグとして「Aリーグ」を設立。新リーグでは「オリンピック」とか「ブダペスト」といった民族的なクラブ名は禁止され、都市名+愛称で統一された。

「Aリーグ」という名称は、もちろん日本での「Jリーグ」の成功を意識したものだった。

夏のフットボール

リーグ戦は春に開幕して秋に終わる、いわゆる「春秋制」を採用。ラグビー系フットボールが冬のスポーツだったので、サッカーは「夏のフットボール」として売り出された。オーストラリアは北半球とは季節が逆なので、オーストラリアでの「春秋制」はサッカーの本場、欧州の「秋春制」と合わせることができた。そのため、数多くのオーストラリア選手が欧州のトップリーグで活躍することになった。

横浜F・マリノス前監督のハリー・キューウェルはイングランドの強豪、リバプールのFWとして欧州チャンピオンズリーグでの優勝にも貢献している。

さらに、2005年には、日韓W杯で韓国をベスト4に導いたオランダの名将フース・ヒディンクをオーストラリア代表監督として招聘(しょうへい)。2006年には2度目のW杯出場を果たし(奇しくも32年前と同じドイツ開催)、日本代表との試合でも積極的なヒディンク采配が逆転勝利をもたらした。

そして、オーストラリアはOFCを離れて、AFC加盟を果たした。

OFCではオーストラリアは圧倒的な強さを誇っていた。フィジーやトンガなどの島嶼(とうしょ)国は、ラグビーでは世界の強豪だが、サッカーでは弱小国。対抗できるのはニュージーランドだけだった。

従って、W杯オセアニア予選ではオーストラリアは圧勝を続けるが、格下との対戦ばかり。これでは代表強化が難しいうえ、オセアニア単独では出場が認められず、欧州や南米の強豪国とのプレーオフを戦わなければならなかった。

長距離移動が負担

たとえば、1994年のアメリカW杯予選では、南米予選で5位となり、すでに代表を引退していたディエゴ・マラドーナが急遽復帰したアルゼンチン代表と対戦して、オーストラリアはW杯出場の夢を絶たれた。

そこで、こうした状況を変えるためにオーストラリアはAFC加盟を目指し、アジア諸国との関係強化を目指していた当時のジョン・ハワード首相もこの動きをサポートした。

アジア転籍後、オーストラリアは全大会でW杯予選突破に成功している。だが、直近2大会では大陸間プレーオフに回るなど苦しい戦いが続いている。

オーストラリアにとって難しいのは「長距離移動」だ。欧州で活躍している選手たちはホームゲームのために地球を半周しなければならないし、オーストラリアから中東への移動も大きな負担となっている。

オーストラリアの歴史家ジェフリー・ブレーニーの著書『距離の暴虐』は、母国である英国と地理的に隔絶されたオーストラリアの地政学的地位を論じた本だが、サッカーの代表チームも「距離」に悩まされているのである。

将来は、AFCと袂を分かって、ニュージーランドや日本、韓国、中国などとともに太平洋地域連盟(仮称)を設立すべきなのかもしれない。

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