男たちを”興奮”させ続けた彼女がついに「あの世」へ…「南溟寺の住職」が「伝説の踊り子・一条さゆり」に付けた意外な「法名」とは

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1960年代ストリップの世界で頂点に君臨した女性がいた。やさしさと厳しさを兼ねそろえ、どこか不幸さを感じさせながらも昭和の男社会を狂気的に魅了した伝説のストリッパー、“一条さゆり”。しかし栄華を極めたあと、生活保護を受けるに至る。川口生まれの平凡な少女が送った波乱万丈な人生。その背後にはどんな時代の流れがあったのか。

「一条さゆり」という昭和が生んだ伝説の踊り子の生き様を記録した『踊る菩薩』(小倉孝保著)から、彼女の生涯と昭和の日本社会の“変化”を紐解いていく。

『踊る菩薩』連載第128回

「ぼろぼろになって一人で死んだ」…昭和の伝説的ストリッパー「一条さゆり」の残酷すぎる「人生の幕切れ」』より続く

心のこもった葬儀

地味でもいい。心のこもった葬儀にしたい。そう考えた稲垣は浄土真宗・南溟寺の住職、戸次公正に経を読んでほしいと依頼している。

一条が亡くなったとき、戸次は京都・東本願寺に出張中だった。8月1日から4日までの予定で開かれた行事に参加している。稲垣はそこに電話をかけた。

「池田さんが亡くなりましたんや。葬儀を頼みますわ」

戸次は80年代、釜ケ崎で身寄りのない者が亡くなると、経をあげてきた。多いときは年に3、4回、弔った。90年代になり、葬儀が簡易になり、釜ケ崎に呼ばれる機会も減った。戸次にとって久しぶりの釜ケ崎だった。

「こっちの用事が済んだら、すぐに行かせてもらいます」

一条の遺体は解放会館1階の「炊き出しの会」事務所に運ばれ、頭を西に向け安置された。事務所横の調理室では、炊き出しの準備が進んでいた。

死は穢れたものではない

一夜明け4日午後、東本願寺での行事を終えた戸次は急いで解放会館に向かい、通夜の経をあげた。

遺体と対面した戸次は、穏やかな顔をしていると思った。両手で一条の胸や顔に軽く触れた。彼は亡きがらを前にすると、いつもそれに触れる。

「仏教では本来、死は汚いものでも、けがれたものでもない。隠すものでもないんです。肌を触ってあげ、最後の仕事としての死を感じ、命の完成を見届ける。そのために触れるんです」

一条に法名を付けた。彼女との交流を思い返したとき、自然と浮かんだ名だった。

「釋優利」

「釋」はお釈迦様の弟子を意味し、「優」は優しさ、「利」は人を喜ばせた彼女の生き方を表した。優しさとサービス精神が彼女の真骨頂だった。

最後の大看板

法名を伝えられた稲垣は言った。

「さゆりと読めるじゃないですか」

「ほんまやな。気付かんかったわ」

5日は朝から曇り空だった。午前十時に葬儀が始まると、細かな雨が降りだした。解放会館入り口右側には、友人からの花が並び、小沢昭一からの白いユリも供えられた。

会館の左側には、2階に届くほどの大きな板に、「初代一条さゆり(池田和子)告別式式場」と書かれていた。看板にこだわり、看板とともに生きた一条最後の大看板だった。

板に書く名を「一条さゆり」とするか、「池田和子」にするか。迷った稲垣は「一条」を大きくし、小さく本名を記した。

「最後に一条さんの名前を大きくしてやりたかった。池田さんが大きくした名前は『一条』やから」

葬式なのに「作業着やジーンズ姿の男たち」…伝説のストリッパー・一条さゆりの“死”が引き起こした「異様な光景」』へ続く

葬式なのに「作業着やジーンズ姿の男たち」…伝説のストリッパー・一条さゆりの“死”が引き起こした「異様な光景」