西田敏行さんが残していた「最後の言葉」…足しげく通っていた寿司店の店主が明かす「いまも悔やんでいること」

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10月17日、俳優・西田敏行さんが東京都内の自宅で死去した。享年76。人情味あふれる人物から悪役まで、幅広い役柄と確かな演技で人々を魅了し続けてきた日本を代表する名俳優の一人が、この世を去った。

西田さんが惚れ込み、足しげく通っていたという都内の寿司店の店主に、ありし日の思い出を聞いた。

「日本一うまい」と絶賛した寿司屋

西田さんは福島県郡山市出身。中学卒業後に上京し、明治大学に進学したが中退。その後、劇団「青年座」に入団し、1970年に初舞台を踏んだ。舞台、映画、ドラマなど数多くの作品に出演、中でも映画「釣りバカ日誌」シリーズは22年間続き、西田さん演じる「ハマちゃん」は多くの人に愛されてきた。

国民スターとして愛されてきた西田さんは、大のお酒好きだったことも知られている。高級店から大衆居酒屋、立ち飲み屋まで、さまざまな酒場を訪ね歩いた。

そんな西田さんが「日本一うまい」と絶賛し、こよなく愛した寿司屋が東京・世田谷区にある。「鮨あらい」だ。同店が開店した2009年、西田さんがフラッと来店したところから縁が始まったという。

好きな寿司ネタは光り物。アジ、サバ、イワシ、サヨリ――。その日、店にある光り物を片っ端から注文し、一緒に店を訪れた家族や仕事仲間らにも決まって勧めていた。

「西田さんと言えば光り物。光り物が大好きで1周した後、2周目も光り物。一緒に来られた方にも『僕はこうなんだけど同じでいい?』って言ってね。まあ、嫌って言えませんよ(笑)」(寿司店の店主)

西田さん曰く「あらいの光り物は日本一」。大切な人に胸を張って勧めることができる逸品だったということだ。

紅白の後に年越し寿司

光り物と一緒に楽しむ日本酒は、地元・福島のものを特に喜んで呑んでいたという。

お気に入りは「飛露喜」。福島・会津坂下の街中に蔵を構える廣木酒造が製造する日本酒だ。

「震災後は地元の応援、という意味もあったのでしょうが、郷土愛も強い方。福島のお酒を出すとうれしそうにしていらっしゃいました。それにお店でも福島のご友人と、ときどきお電話されていましたよ」(前出の寿司店の店主、以下「」も)

店主はあるエピソードを披露してくれた。2012年12月31日、『第63回NHK紅白歌合戦』の特別企画に出演したときのことだ。

「西田さんから『紅白出演後に寿司が食べたいんだよね』と相談されました。『お待ちしていますよ』と伝えて当日、店を開けて待っていたら、紅白が終わって年が変わった1時頃に来られて、3時〜4時くらいまでいらっしゃいました。年越しお寿司ですね」

紅白歌合戦という晴れ舞台。特別企画は東北に縁深い出演者が、東日本大震災の被災地へ歌でメッセージを送ろう、と企画されたもの。

西田さんは紅白で甚大な被害を受けた故郷に思いをはせながら、東日本大震災復興応援ソング「花が咲く」を披露した。そんな特別な仕事を終え、新年最初に選んだ店が、大好きな「鮨あらい」だったのだろう。

甚平姿で自転車に乗って

西田さんが店を訪れるのは、なにも特別な日ばかりではない。撮影のあとや休日にもたびたび店に足を運んでいた。時には甚平姿で、ふらっと自転車に乗って現れることもあったという。

「酔っぱらってしまい、自転車に乗って帰れなかったので、翌日、西田さんのご自宅まで届けたこともあります(笑)。お酒が大好きで、とにかく強かった。ただ、飲み始めると止められなくて『最後、もう一杯。もう一杯だけいい?』って何度となく言われました。うちのお客さんもご家族も健康を心配されていて、奥様から『あんまり飲ませないで』と言われたこともありました」

健康のことはあれど、おいしそうにグラスを傾ける西田さんの姿を、店主はよく覚えていた。

「武士の役で夏場に甲冑を着て、映画の撮影をしていたときのことです。『暑い、暑い』と言いながらうちに来て、最初のビールをそれはもうおいしそうに呑み干していて。あの時の姿は今でもはっきり覚えていますね。

冬はつつじが丘の農家さんしか作っていない品種のゆずを焼酎と割ったものを毎年楽しみにされていました。1年のうち、12月しか獲れないので期間限定のお酒、いつもおいしそうに召し上がっていました」

西田さんにとって酒の場は楽しむだけではなく、演技を磨く場でもあったという。

客席全体を見渡しながら

「周りの人と接し、語り、またお客さんの様子を見るのが好きだったようです。うちに来た時も、客席全体を見渡しながら呑んでいましたから」

抜群の演技力、中でも巧みなアドリブに定評があった西田さん。酒の席で感じ取った人の心の機微を演技に活かしてきたのだろう。

「私たちが『あのドラマのあのセリフ、アドリブですよね』と伝えると、うれしそうににんまりしていたこともあります」

そして居合わせた客らにも積極的に声をかけ、交流を楽しんでいた。

「お客さまから『ファンです』と声をかけられると、西田さんは喜んで、『写真を撮ろうよ』と提案してくれたり、結婚記念日のお客さまがいたら『いっぱいごちそうするから飲んで』って声をかけられたり。本当に気さくな方でした。地元ではよく飲んでいて、うちに限らず居酒屋や立ち飲み屋だったり、地元のお店を愛してやまない人でした」

西田さんが最後に鮨あらいを訪れたのは2021年のことだった。当時、コロナ禍は続いており、飲食店はたびたび休業を余儀なくされていた。

留守番電話に残っていた声

「ようやく外食もできるようになった2023年1月に予約の電話をもらったんです。でも、その日は満席でお断りをしたんです。そうしたら2月にまたご予約のお電話がありました」

しかし、店はその日、臨時休業だった。店の留守番電話には「あー、休みかあ」という西田さんの残念そうな声が残されていた。

「それが私の聞いた西田さんの最後の言葉です。あの声が頭から離れないんです。あの時、休みなきゃよかったなって後悔しています。西田さんはリハビリもしていた、とも聞いていたので、今は具合が悪くても体調を戻してまたフラっと来てくださるんじゃないか、と思っていたんです」

店主は時折声を詰まらせながらそう話した。

「西田さんにもう一回、私の握る寿司を、うちの光り物を食べてほしかったという思いは強いです。店を始めた当初は暇な時もありましたが、西田さんが来て『うまい』と言って食べてくれる、『日本一だ』と言ってくれた。それが心の支えでしたし、同時により研鑽を積まなければいけない、と気持ちも引き締めてくれました。

だから、これからも西田さんの言葉を誇りに、また支えに、西田さんが喜んでくれるような寿司を提供していきたいです」

西田さんが地元の寿司屋と故郷の酒を愛したように、世田谷の町で西田さんも多くの人に愛されていた。

【つづきを読む】『西田敏行さんが「自分の好きな人だけ」を連れてきて…名俳優が「日本一」と絶賛する寿司店で過ごしていた「かけがえのない時間」』

西田敏行さんが「自分の好きな人だけ」を連れてきて…名俳優が「日本一」と絶賛する寿司店で過ごしていた「かけがえのない時間」