「人柄が悪く、親や親類と縁を切った人」は共同体から排除…江戸の「監視社会」が存在を許さなかった「無宿」とは何だったのか

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江戸時代の「裁き」の記録は3点しか現存していない。そのうち、もっとも長期間の記録が、長崎奉行所の「犯科帳」だ。江戸時代の社会の実情がわかる貴重な資料である。

この「犯科帳」を見ていくと「宿なし」「無宿」という言葉が目につく。これらは、当時の共同体から排除されていた人たちを指し、他の地域から長崎へ来ていたことがわかる。

江戸社会が監視し、存在を許さなかった「宿なし」「無宿」とは何だったのか。そして、なぜ長崎に来ていたのか。

【本記事は、松尾晋一『江戸の犯罪録 長崎奉行「犯科帳」を読む』(10月17日発売)より抜粋・編集したものです。】

他の土地で排除されても、長崎なら生きていける

江戸時代には「監視社会」とも言うべき側面があった。この住民相互の「監視」のための仕組みとして作られたのが、現在の戸籍の役割を果たした人別帳であり、相互扶助と同時に連帯責任のための組織としても機能していた五人組であった。

この「制度」の下にあっては、罪を犯すと一般的に「帳外れ」となり、人別帳から除籍されて「無宿」とされた。

「犯科帳」を見ていくと「宿なし」「無宿」という言葉が目につく。二つを区別する研究者もいるが、長崎の場合には同じと考えられている。その実情は、長崎奉行・大岡清相がこの存在を問題視し、享保元(1716)年、宿なしへの処分について老中に伺った書付とそれへの答えから確認することができる。

それによると、長崎の「宿なし」とは、江戸など他の地域における乞食〈こつじき〉、非人のような者ではなく、二つの意味があった。一つは長崎生まれだが人柄が悪く親や親類などと義絶して、長崎内で親交のある者の所に身を寄せるなどして渡世を送っている者。この者は町内の乙名にその旨が届けられ、奉行所の人別帳にもそのように記録されている。長崎の場合、「竈〈かまど〉」という一種の擬似的な世帯ごとに、「竈銀」という貿易の利潤が配分されていた。ただこうした者は「竈」に所属していないので「竈銀」の、つまりは貿易の利銀の配分の対象にはならなかった。そのために、「宿なし」として扱われたのである。

もう一つは、長崎ではない西国の、かつ幕領ではなく私領(大名領など)の生まれの者で、長崎に来て何らかの手段で渡世を送っている者。

前者の場合、共同体から縁を切られても長崎を離れないのは長崎が大きな都市であり、共同体に属さなくても生きていけたからだろう。彼らの存在から都市長崎の懐の深さを知ることができる。後者からは、他にはない豊かさが長崎にはあるように外からは見られていたこと、そして実際、他地域から長崎に来た者たちが生きていける実態があったことが見て取れる。

人の出入りと住人の把握は怠らない

国際貿易港として創られた長崎では、商売のために多くの人の往来が見られた。支配者も、取引が活発化すれば町も賑わいをみせることはよく心得ていた(「町方御仕置帳 全」)。しかし人の出入りが多くなると、当然のことながらさまざまな問題が起こる。したがって、人の出入りや住人の把握を奉行所が怠ることはなかった。

例えば、町内の者が引っ越したり年越しの旅行を行う場合、町乙名が吟味をして本人を引き連れて願書を長崎奉行所に提出した。そして許されると年行司から書付をもらって年番年寄のところへ差し出して往来切手申請を行い、これを受け取った。この受取り証文は乙名・組頭連印のものだった。通常の旅行の場合はこれより手続きが簡素化されているものの、町人の移動に町が責任を負う仕組みになっていたことに変わりはない。

いっぽう外から旅人を受け入れる際には、宿主から乙名に申し出て吟味を行い、掛〈かかり〉の乙名へ連絡をし、書類を作って掛の年寄に届ける仕組みになっていた(帰国の時も同様)。

また人別改では、15歳以上の者を五人ずつ組み合わせて、御法度を堅く守ることが厳しく命じられ、互いに監視し合っていた。不明者が出ると、町乙名のところまで届けさせ、その後は毎月、五町組合の乙名が連判した書付を年番年寄まで提出させて現状の把握に努めた(『長崎乙名勤方附御触書抄』三頁)。

そもそも町に無宿がいること自体が不届きであると長崎奉行が判断することも多かったのは、こうした理由からである。とは言え、長崎奉行に「無宿」が生まれる状況を止められるはずもなく、また長崎の無宿をすべて把握できるはずもなかった。これらの管理は各町の乙名、組頭、日行司が担っていたが、五人組による監視だけでは当然のことながら限界があった(森永種夫編『長崎奉行所判決記録 犯科帳』(一)二〇六頁)。

無宿の存在は、治安を守る立場の者にとってつねに頭を悩ませる課題でありつづけていた。

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