太平洋戦争末期、「女1人男32人」の日本人が絶海の孤島に取り残される…「和子さん」を奪い合う「壮絶な殺し合い」の顛末と帰国後、彼女が主演した「究極のキワモノ映画」の悲惨な舞台裏

写真拡大 (全6枚)

太平洋戦争下、絶海の孤島に取り残された33人のうち、男は32人、女は比嘉和子たった1人。和子をめぐり、命をかけた壮絶な殺し合いが繰り広げられた。帰国後、彼女は愛欲、情欲にまみれた“アナタハンの女王”として一気に時の人となり、映画にまで主演するが……。気鋭のライター・高鳥都氏のルポを雑誌『昭和の不思議101』(大洋図書)からの改訂版でお届けします。

次々と「変死」する男たち

アナタハンの女王、または女王蜂──戦後6年目、絶海の孤島における男32人、女1人の共同生活から生き延びた比嘉和子は、そのような名で呼ばれ、メディアからセンセーショナルに取り上げられた。

みずからの汚名を返上するため沖縄を発った和子はマスコミに登場し、さらに本人主演の『アナタハン島の眞相はこれだ!!』(53年)という究極のキワモノ映画が世に放たれた。本稿では、この作品の成り立ちから数奇な後日譚までを探っていきたい。

まずは、アナタハン島で起きた事件のあらましを説明しよう。太平洋西部に位置する北マリアナ諸島の小島アナタハンは第二次世界大戦当時、日本の委任統治領であった。南洋興発の社員・比嘉正一の妻・和子は、夫がサイパンに向かったまま戻らず同郷の上司・比嘉菊一郎と事実上の夫婦生活を送っていた。

1944年6月、アメリカ軍の攻撃により沈没した船の乗組員や兵士ら31人の日本人がアナタハンに上陸する。若き男たちは、終戦の知らせを信じることもなく“アナタハンの皇軍”として島に残り、極限状況のなか原始的生活を送りながら和子に欲望の目を向ける。やがて米軍機の残骸から拳銃と実弾が発見され、男たちのパワーバランスが決壊。まず和子と夫婦同然だった菊一郎が変死し、2年後に次の夫も死亡、はたまた続く夫まで……。

“たったひとりの女”を原因とする公開処刑を前に、和子は逃げ出しアメリカ軍に投降。その知らせなどによって男たちも救出されるが、生き残っていたのは20人──行方不明をふくめて10人以上が死亡していた。

投降から2ヶ月後の1950年8月、『沖縄タイムス』が和子のインタビューとともに詳細な記事をのせ、島での惨劇が明るみに。続いて“女王蜂”という呼び名が使われ、さらに『週刊朝日』に転載された要約記事が「孤島の女王物語」として取り上げ、異常かつ残酷な戦争秘話が広く知られるようになる。

ハリウッド監督から映画化のオファーも

「食と性、その二つを支配する女王として、カズさんは君臨したわけであった」(『週刊朝日』50年10月8日号)──たちまち人々の興味をひきつけて、アナタハンブームが巻き起こる。和子への同情より好奇や軽蔑の目が集まった。沖縄人に対する偏見も加わり、「愛欲」「情欲」「獣欲」という二文字が飛び交った。

故郷に戻った和子は料亭の女中として働くが、まんまと見世物に。酔えば全裸でアナタハン踊りを披露したという。ついに親戚が「アナタハン」という名の食堂を開き、和子が店に出た。東京や大阪からは興行師が訪れ、沖縄出身の詩人・伊波南哲は「戦争の悲劇を映画にしよう」と持ちかけた。

巷では「アナタハン」「クイーンビー」「女王蜂」といった店が次々と開かれ、舞台や読み物の題材となり歌まで作られた。島からの生還者である丸山通郎は『アナタハン』、続いて『アナタハンの告白』(田中秀吉との共著)という手記を出版し、より詳しく男たちの殺し合いや和子の毒婦ぶりが広められる。極めつきはハリウッドの巨匠ジョセフ・フォン・スタンバーグが来日し、『アナタハン』の映画化を発表。予算4000万円という大作として、準備が進められた。

汚名返上を試みるが…男たちに翻弄される日々

1952年11月20日、比嘉和子は兄の宮里太光やマネージャーの徳重宏樹、後見人の詩人・伊波南哲とともに上京。派手な着物で横浜港に降り立ち、汚名返上のため新聞や雑誌に登場する。「わたしのことで殺されたのは2人しかありません」と反論し、生きるために多くの男性と関係をもったことを語った。

12月からは銀座のストリップ劇場・コニーバーレスクで、ずばり『アナタハン島』なる舞台に出演。伊波の原作をもとに「再現する赤裸の地獄図!」と真相告白を建前に半裸でフラダンスを踊った。興行師や周囲の人物に踊られた。

これまた生きるための手段だったが、悪評ばかりが目立ち、興行もいまいち。ニュース映画各社は和子に密着し、たちまちスクリーンでその姿が大写しとなる。舞台のギャラは2週間で30万円。破格の金額だが、もちろんそのまま本人の手にわたったわけではない。

コニーへの橋渡しは万世貿易の土屋進だったが、伊波や徳重の思惑もあり、三者三様のせめぎ合いが発生。またも男たちに翻弄される和子だが、とくにマネージャーの徳重とは男女の関係にあった。

新宿のフランス座、浅草のロック座、名古屋のミナト座ほか比嘉和子一座は各地を転々とし、千葉の鴨川では孤島における命の恩人・久保梅吉と再会を果たす。いよいよ53年3月、主演映画『アナタハン島の眞相はこれだ!!』の撮影が鴨川の仁右衛門島で行われ、早くも翌月に封切られた。スタンバーグの『アナタハン』より先に、本人主演の便乗作が世に出たわけだ。

後編記事『絶海の孤島で「32人の男」たちが命を懸けて奪い合った「1人の日本人女性」…一世を風靡した「アナタハンの女王」が西成で工員から頭をカチ割られ、故郷に戻るまで』へ続く。

絶海の孤島で「32人の男」たちが命をかけて奪い合った「1人の日本人女性」…一世を風靡した「アナタハンの女王」が西成で工員から頭をカチ割られ、故郷に戻るまで